2006年05月06日

「賢母」と「厳父」

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[連載��]強者こそが担うべき国家の責務!

父権復権を考える時ではないか!

 戸塚宏氏の教育論を連載で取り上げたところ、多くの方から批判を頂きました。やはり過失致死事件で有罪判決を受け、収監され刑期を終え出所したとはいえ、戸塚氏の教育方法に疑問をお持ちの方が多かったようです。

 戸塚氏には刑務所に収監される前に、当団体(国家社会主義者同盟)主宰の講演会にお招きして、お話を伺ったことがありました。その時の講演テープがあったので、それを今回弟子に再生させて投稿を頼みました。

 テレビなどのマスメディアも刑期が終えたということで、出演依頼しているのでしょう。わが国では刑期を終えれば罪は償ったというのが一般的な考えだが、戸塚氏の場合は生徒を死亡させているだけに、そう簡単には許せないとの気持ちがあるのは、またある意味で当然かもしれない。

 私としてもこの件で賛否両論があるのは分かっていましたが、彼(戸塚氏)が常々主張してきたことにも、一理あると思い彼の言葉で、そのことに触れてみようと考えましたが、急遽【連載】の趣旨を変えて私自身の言葉で書くことにします。

 私は賢母・厳父という言葉に今注目しています。実際、私を育ててくれた母と父はこの言葉で表すことが出来る両親だったのではないかと考えています。

 よく「人間性豊かな子どもを育てる」という言葉が教育関係者から聞かれますが、ではそれはどのような教育によってなせるのでしょうか?「人間性」と言うからには心の問題です。

 私は以前にこのブログでも書きましたが、「知性」よりも大切なものとして「感性」を上げました。感性とは日頃の「感化」から「感動」という繰り返しの中で磨かれてくるものだと信じています。

 これは学校教育というよりは、家庭内における躾(しつけ)や、何気ない優しさや厳しさで学んでいくものではないでしょうか。

 ネットで検索したら賢母について、ある小学校の校長先生の言葉として次のようなものがありました。
「一人の賢母は百人の教師に優る」

 厳父という言葉は現代社会においては、もう化石になってしまったのでしょうか。いくら賢母がいても厳父が存在しなければ、情操教育というものは上手くいかないのではないでしょうか。

 今、情操教育の欠陥として家庭の存在が増々希薄になっているという現実があります。一番の原因は家庭団欒の時間がなくなったということでしょう。それはテレビの存在ではないか。また、このテレビが全くくだらない番組を垂れ流す。

 特に問題なのはバラエティー番組などで父親が家族からこけにされる企画が非常に多い。父親は仕事で外にいる機会が多いので、家族の中では一番疎遠である。それを良い事に父親を貶めて、家にいる母親と子どもを楽しませているとすればとんでもないことだ。

 今こそ、父権の復権について、真剣に議論すべき時であると思います。戸塚ヨットスクールで、それを強く感じたという子ども達も多かったのも事実です。

 2ちゃんねるのスレッドでは、実際に体験して立派な社会人になった方の投稿もあった。対して、やはり批判する人達も多かった。この問題はそう簡単には白黒をつけられる問題とは違うのかも知れない。

 戸塚氏の講演内容については、一応前回で終了しますが、この企画については、別な話題を取り上げながら今後も続けたいと思います。

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2006年05月05日

[連載��]強者こそが担うべき国家の責務!

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写真:戸塚宏校長/収監前の平成14年、東京都港区内での講演にて

戸塚ヨットに学ぶ大人の責任

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肝心なのは�猯廊瓩寮気靴せ箸な�

 戸塚宏校長曰く「役人どもは体罰禁止などと言うが、体罰の意味を知らない」
 戸塚ヨットにおける事故ならぬ�犹�件�瓩留加罅�検察庁は体罰と暴行を同列に論じた。
 力こそは正義である。しかし、使い方がまずい場合も往々にしてある。その力の使い方を間違った場合を「暴力」と言う。正しく使った場合は飽くまでも「力」なのだ。

 体罰と暴力は有形力の行使、目に見える形では同じでも、その本質はまったく違う。
 「暴行」とは力の行使によって自らが利益を得ようとする場合を指す。
 「体罰」を使って自らに利益はまったくない。体罰で利益を得るのは子供だからだ。
 殴られるのは痛い―、嫌だ―、その不快感が子供を行動に至らしめる。行動するから進化もする。
「体罰とは子供を進歩を目的とした力の行使で、これは正義です。この違いをしっかりと分けないといけない」(戸塚校長)

 十数年前になるだろうか―、神戸の学校でのこと。朝八時に校門を閉めることが校則になっているから、その校則に従って教諭が鉄製の門を閉めていたところ、登校時間のギリギリに駆け込んだ女子生徒が扉に挟まれて死亡したという��事故�瓩�あった―。
 教諭には生徒を殺そうという犯意がなかったため、これは事故と言うべきである。
 しかし、朝日新聞は事故発生の当初から「殺人である」として報じた。
 当時、同じく事故、過失によって生徒を亡くした経験を持つ戸塚校長らは朝日新聞が必ず言い出すであろうと待ち構える。―案の定、三日後のことであった…。
朝日新聞の紙面には「だから校則はいけない」と―。

 これはまったく理論になっていない。どうして校則が悪いと言えるのか。
戸塚校長が指摘する。
「校則は生徒を殺すことを目的とはしていません。だから校則が悪いはずがない。問題はその�犹箸な��瓩任后�
 校門を閉めた先生がボンヤリした人だったのでしょう。運用の仕方が悪かったんです。
 ハードとソフトだとしたら、これはソフトの問題でありハードの問題ではない。その両方をごちゃ混ぜにするのがマスコミのやり方です。
 体罰をした→怪我をした→だから体罰は悪い、というような言い方ですよ。
 これは体罰が悪いのではなく、体罰の�爐笋衒��瓩�悪かったのです」

 戦後の日本社会はこのソフトとハードを取り違え、多くのものを壊してきた。
 愛国心が悪かったのではない。もし、問題があったとすれば愛国心の用い方や捉え方に問題があったのではないか。戦争が悪いのではない。自存自衛の為には戦うのは当然だ。そうしなければ座して死を待つのみだろう。戦争の�爐笋衒��瓩北簑蠅�あったのである。
 警察官による発砲は市民の生命と財産を守る為の正当な職務遂行に過ぎない。凶悪犯による発砲とは明らかに本質が違う。
 それをごちゃ混ぜにしてきたところに今日の混乱がある。

 我々極右は中国のように反日を軸に用い方を誤まった愛国心こそ排外主義を煽るものであり、自存自衛を目的とはしておらず、中国共産党独裁政権の維持が目的でしかない侵略的覇権主義・軍備拡張こそ危険極まりないと断言するものだ!

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2006年05月03日

[連載]強者こそが担うべき国家の責務!

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戸塚ヨットに学ぶ大人の責任

―叱正と体罰なくして人間性育たず―

 崩壊が指摘されて久しい我が国の教育だが、今年は教育基本法の改正案も提出され、かの『戸塚ヨットスクール』の戸塚宏校長が今春に出所・現場復帰を果たされただけにこの平成18年は�犇軌藝洞集鞠��瓩噺世┐襪世蹐Α�
 最高裁が戸塚ヨットスクール側の上告を棄却し、戸塚校長の実刑が確定したのは今から4年前のことだった―。この戸塚ヨットから多くの子供達が奇跡のように更正した事実がある以上、解決の糸口を探しあぐねる日本社会は、出所後、メディアに頻繁に登場しては教育再生への意欲を示す戸塚校長の力説に耳を傾ける必要があるのではないか―。

戸塚ヨットの生い立ち
 今から二十数年前、私塾の戸塚ヨットスクールで死亡事故が起きた。飽くまでも事件ではなく��死亡事故�瓩任△辰燭�、どうしても事件にされてしまう。
 当時、児童の登校拒否が激増し、各家庭や学校教育の最前線では親や教師が頭を悩ませる。
そうした状況下、戸塚校長らはヨットスクールを始め出す。そこに偶然入校していた登校拒否児がいたわけだが、ただの1度ヨットに乗っただけで更正し、学校に行き始めたという。
 それまで親と共にカウンセリングや児童相談所を何度も訪ねたが、良くはならなかった。それが日曜のある日、一度ヨットに乗っただけで小学校5年から中学1年まで3年間も登校拒否をしていた子供が中学2年の5月から自ら学校へ行き始めたのだ。
 その親から話を聞いた知人の親が子供を戸塚ヨットへ入校させる。すると、また立ち直る。たちまち評判は広まり、また別の子供がやって来て立ち直り、瞬く間に十人、二十人と続き戸塚ヨットは登校拒否児童を立ち直らせるスパルタ式教育で一気に注目を集め出す―。

欠落した父性・父権を担う!
子供の目に見る危機意識の現われとは?
 頽廃極める青少年の更正とは何を以って更正というのだろうか。
 学校にはきちんと行っているが、人間的に見て素行に問題のある者もいる。偉そうにする―、意気地が無い―、嘘ばかりつく―。およそ子供にあるまじき態度だ。
 こうした子供におそらく将来はないだろう。戸塚校長はこれを「戦後教育の結果である」と断言する。
 戸塚ヨットにやって来た子供はどの子も目が吊り上っていた―。
 戸塚校長らはそうした子供らに体罰を加えることで矯正を図った。時間にして十秒もかからない。一発ぶん殴った後に、殴る前の写真と見比べる。すると吊り上っていた目は自然と下がっている。どこか安堵感に満ちたような目になっているのだという。
 その原因はどこにあったのか?家庭環境である。 
 第一に父親が弱い…相当なかかあ天下か、父親の気が弱過ぎる、あるいは母子家庭か、どれかに当てはまることを突き止めた。自分を庇護する者らは極めて弱い…必然、子供らはいざという時、自分は守ってはもらえないという恐怖心に駆られる。だから目は吊り上ってしまう―!戸塚ヨットの教育は家庭から喪失された父性・父権を担ったのである。

「男、父親とは強くないといけない。強さとは正しさであり、力は正義である」
 戸塚校長は常々、戦後の家庭教育から欠落した父性・父権の復活を提唱されている。戸塚校長をはじめ戸塚ヨットのコーチ陣の面々は強そうだ…だから戸塚ヨットに来る子供らは言うことを聞く―。
「言うことを聞くのは強い者だから言うことを聞くんですよ。弱い者の言うことなんて誰も聞きやしない。我々だってそうなんですから、子供だってそうなんです。
 平等だよ、なんて言っていたら言うことなんか聞くわけがない。ましてや子供にへりくだってしまう。子供の言う通りになる親の言うことなんか、子供が聞くはずもない。全て自分のこととして考えて下さい」(戸塚校長)
 
 国家に置き換えても当てはまる。
 自宅に賊が侵入したとしよう。家族に危害が加えられそうな時、誰しも身を挺してでも助けようとするだろう。それが国家の在るべき姿だ。
 北の暗黒独裁国家に同胞を拉致され、二十数年にも渡って放置してきた国家に誰が尊厳を抱くだろうか。靖国参拝で周辺国から内政干渉を受けても、政治家や政府に腹が据わっていないから国民も右往左往する。その場凌ぎや責任回避の答弁に終始していては国民からの尊敬は得られまい。この半世紀間、国民は国家から守ってはもらえないという危機感に怯えてきた―。
 我々極右は戸塚校長及び戸塚ヨット・スクールが提唱する父権の復活を目指したスパルタ式教育に全面的に賛同する。
 それが、いざ国難に対しては全身全霊を投げ出すエリート(強者)が国家・国民を導く真の国家に通ずると確信するからだ―!弱者とは強者のみが守り得る―!

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2006年03月25日

『国家の品格』とイチロー選手

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日本社会の素晴らしさを改めて学ぶ、『以心伝心』

 『国家の品格』(藤原正彦・新潮新書)、この本がベストセラー街道を突っ走っている。「はじめに」を読んで著者が言わんとする全てがここで分かるような気がした。これほど全文を正確に要約した序文は見たことがない。

 それだけこの著者が優れた文章力(本人は数学者)を持ち、しかも人に読ませる力量を備えていることが分かる。この「はじめに」から引用して紹介したい部分がある。その前に先生の人物像を先に紹介しておきましょう。

 著者の藤原先生は論理的に物事を理解することに人より長けておられた。だからこそ数学を学び教授ともなられた。藤原先生は難解な問題を論理的に解明するお仕事を選び、それをこれまで教えてこられた。

 その先生が大切なのは論理よりも伝統、情緒であり武士道精神と語っている。これらはおよそ論理的には説明し難いものである。例えば先生はフジテレビの『報道2001』の中で、伝統について聞かれた時に「ただただ、従って行くものだ」と述べている。

 数学者の答えを期待していた人には物足りなさを感じたかも知れない。しかし、そこには西欧的な合理性は全く入る隙間もないほどの明快さで答えておられた。

 イチロー選手については、私はその内面は余り知らない。しかし、彼が合理主義者という言葉が、何故か似合いそうな選手であると感じてきた。これから藤原先生の言わんとする話とイチロー選手が語った言葉から、素晴らしい日本の姿を考察してみたい。

 藤原先生は米国での経験を次のように書いている。

 「以心伝心、あうんの呼吸、腹芸、長幼、義理、貸し借りなどがものを言う日本に比べ、論理の応酬だけで物事が決まっていくアメリカ社会が爽快に思いました」

 「人種のるつぼと言われるアメリカでは、国家を統一するには、すべての人種に共通するもの、論理的に従うしかないのです」

 先生はアメリカかぶれになって、日本に帰ってからも、論理的に生きることを通してきたそうです。しかし、またそれを疑問に思えてきたとも書いておられます。

 「次第に論理だけでは物事は片付かない、論理的に正しいということはさほどのことでない、と考えるようになりました。数学者のはしくれの私が、論理の力を疑うようになったのです」

 それから先生は英国に渡られ、そこで論理よりも慣習や伝統に触れ、論理的なものよりも素晴らしいものがあるとして、今回の『国家の品格』を書かれた訳である。

 さて、私が注目したのは「以心伝心」という言葉だ。これをイチロー選手の共同記者会見の中で感じたからでした。イチロー選手は米国の野球チームにいた時と、今回の日本選手団の時との違いについて聞かれて次のように答えたのである。

 「米国では10を分かってもらおうとした時に、13とか15やっても分かってもらえない。しかし、今回はもう2つ3つで分かってもらえた」

 この意味を論理的に説明しなさいと言われれば、難しく説明する人もいるでしょう。しかし、説明を聞かなくても日本人なら誰だって「なるほどなぁ〜」と思ったでしょう。

 つまり、日本は多民族国家ではないから、別に論理的に考える必要がないのです。これは全てがそうあるべきとの話ではありません。論理的に考えなければいけない時もあります。

 しかし、日本人の力、或いは日本という国家の力とは、そういうものを指すのではないでしょうか。

 「戦後、祖国への誇りや自信を失うように教育され、すっかり足腰の弱った日本人は、世界に誇るべき我が国古来の『情緒と形』をあっさり忘れ『論理と合理』に身を売って『国家の品格』を失った」

 「現在進行中のグローバル化とは、世界を均質にするものです。日本人はこの世界の趨勢に敢然と闘いを挑むべきと思います。普通の国となってはいけないのです。欧米支配下の野卑な世界にあって『孤高の日本』でなければなりません。」

 先生は『孤高の日本』を取り戻せと訴えておられる。『文明の衝突』のハンチントン教授も日本は世界に稀なる『孤高の文明』と書いておられた。

 私は米国で活躍したイチロー選手の姿が、どうしてもこの『孤高』という姿に重なって見えてしまった。韓国社会がイチロー選手に罵詈雑言を浴びせたのは侮辱されたと思ったからではなく、彼の姿から日本の素晴らしさを改めて見せ付けられたことに対する羨望からではなかったのか…。

皆さんは、どう思われますか、ご意見お待ちしています。

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2006年02月11日

情念として甦る“愛国心”

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写真:靖国神社の『遊就館』に展示されている零戦

「建国記念の日」愛国心について

 本日2月11日は「建国記念の日」です。国民の祝日に関する法律第二条で、「建国を偲び、国を愛する心を養う」とあります。日本の歴史の中で、今日ほど国民の間で“愛国心”が軽んじられている時代はないと思います。

 あなたがもし「明日戦争が起きたら、戦場に赴く事が出来るか?」と問いかけられたら、先ず真っ先に何を思うでしょうか。家族のことでしょうか。友人のことでしょうか。そして死と向き合うかも知れません。誰しもが「戦争は嫌だ」と思うでしょう。

 私は戦後生まれの日本人であり、戦争の悲惨さも残酷さも知りません。有り余る自由と豊かさの中で育ってきました。このような自分が戦争と愛国心を論ずることなど、実際にそれを経験した人からすれば、不謹慎なことと批判されるかも知れない。

 なぜならば、我々戦後世代の日本人にとっては戦争などと言われても漠然としたもので、それは書物や映像からしか知り得ていない。確かに日本は平和であった…しかし戦争は世界中で行われてきた。

 我々はそれをテレビニュースで見てきたが、やはりその感想も「戦争はいやだな…」という本心からのつぶやきだった。それは誰しもが思う人間としての本音だろう。

 今から半世紀前、我々の先輩は戦場に赴き多くの若者が死んで行った。彼らも現在の若者達と同じように本音としては「戦争はいやだった」でしょう。しかし、彼らは戦場に赴き戦った。

 では、なぜ我々の先輩は戦争に参加して、自らの命をかけて戦ったのか―。それを観念的に捉えるのではなく、実感から捉えたいと考えた時、靖国神社はなくてはならないものです。

 靖国神社は亡くなった人達の最後の手紙を遺稿集として発行している。この遺稿集を読むと、彼らの愛国心が痛いほど伝わってくる。国家とは家族の集合体であることが理解出来る。

 そして、かつての教育の素晴らしさを認識出来る。戦後の教育とは国家を批判の対象としてしか教えず、国家に報恩することは罪悪と見なして攻撃した。国家とは終局的には破壊の対象でしかない、という左翼思想の教えである。

 では、我々戦後世代にとって「国家」とは一体何であるのか?これを抜きに愛国心を語ることは出来ない。ましてや戦争で自らの命を賭けて戦うことなど不可能である。

 我々は先ずそれを知らなければならない。それを知ることによって戦後社会と戦後教育の誤りに気がつく事になり、本当の意味で「祖国」に目覚めることが出来るだろう。

 この難問題を解き明かしてくれるのも、また靖国神社なのです。靖国神社に祀られた戦没者を国家の為に戦った「殉教者」と自分の目で見れるようになった時、我々は真の祖国を感じ、そして自分の胸の内に「日本人の魂」を甦らせることが出来るのです。

 それは知識を会得するという行為とは根本的に違うものであり、自分の心に中に一気に情念として燃え上がるものなのです。

 私は右翼活動を20代から30代中頃までやっていました。街宣カーを止め多くの人々に呼びかけてきました。特に「建国記念の日」は、一日数十箇所で演説しました。当時を思い出し再現させていただきます。

「皆さん、日教組はこの国旗・日の丸は人殺しの旗であり、国歌・君が代は人殺しの歌であり、靖国神社の英霊は戦争犯罪者であり、天皇陛下はその戦争犯罪の責任者であると罵倒してきました。そのような教育を受けて育った私が、何故、今この場で堂々と日の丸を掲げ君が代を歌い、靖国神社に眠る英霊を敬い、天皇陛下には礼を尽くさねばならぬと訴えているのでしょうか?」

「それは我々は日本人(ニッポンジン)であるからです。この日本に生まれ、日本人を父と持ち母と持ち、この日本で育った真の日本人であります。我々の帰るのはこの日本の大地しかありません。だからこそ愛国心が今この心の中に甦ってきたのです…」

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