2006年03月04日

蘆溝橋事件は中ソ共同の策謀?��

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「反中国歴史講座」 ��

蘆溝橋事件は中ソ共同の策謀?��

 1937年(昭和12年)7月7日七夕の蘆溝橋事件は、日本側からの発砲とされてきたが、これは明らかに嘘である。当時日本側は戦争の拡大など望んではおらず、日本側から仕掛ける必要性は全くなかった。

 にもかかわらず、この事件を我が国の教科書は「蘆溝橋での�狷�本側からの一発�瓩�ら戦闘は拡大の一途に向った」などと、日本側から仕掛けられたものであると記述してきた。

 今日、最初の発砲は劉少奇・中国共産党北方局主任の差し金であったと云われている。この発砲事件はすぐに停戦交渉が行われた。これを見ても日本軍が戦線を拡大する考えがなかったことは明らかだ。

 劉少奇は停戦交渉中に電信などで「即時抗戦」を強訴し、現地では精華大学の共産主義学生を主体とする抗日過激分子が激しく策動していたのは、あまりにも有名な話である。

 中国共産党は1932年(昭和7年)早くも「北上抗日」を宣言、1934年(昭和9年)10月、その根拠地であった江西省瑞金を脱して、あの有名な「長征」を挙行、支那西北部の延安に向った。

【長征】フリー百科より

国民政府は、1930年代、「中華ソビエト解放区」と称する支配地域を各地に築いていた共産党に対し攻勢を強め、「囲剿(=悪者を囲み滅ぼすの意)」と称する包囲殲滅線を各地で展開した。当時共産党の最大勢力圏は江西省瑞金を中心にした山岳地帯根拠地であった。民族資本や外国資本の集まる大都市や半植民地化された沿岸部からは遠くはなれた地域であったため、中華ソビエト地区を発展させるには農業の発展が不可避であり、半農半兵という状態であった。 当時共産党正規軍は中国工農紅軍第一軍と呼ばれており、瑞金政府管理下の正規軍は約十万、民兵を含めても十五万に満たない兵力であったという。

 この「長征」は国民政府軍の追討を避ける為だが、もう一つの目的は抗日戦争への拠点確保であった。北支、内蒙へ進出して満州の側背を脅威し、日本軍の対ソ防衛を妨げようとしたのであった。

 注目すべきは、当時の中国共産党はモスクワを総司令部とするコミュンテルンの一機関に過ぎず、事実上ソ連の手先だったことである。この点は今後の満州事変、支那事変を見ていく上で重要なポイントとなってくる。

我々《極右》は中国侵略とは考えておらず、共産主義者との死闘であったと考えるからだ。

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2006年03月01日

「反中国歴史講座」��張作霖爆殺「ソ連が実行」

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[お知らせ]
この「反中国講座」を「反中国歴史講座」とタイトルを変更しました。

 満州国建国に至る歴史的な過程において、日本の進出は共産中国が主張するような領土的野心を抱き武力を伴った「侵略行為」であったのか?或いは国際社会も認めた「進出」であったかを検証してきました。

 日清戦争、義和団事件、ロシア満州占領、日露戦争、ソビエト革命、シベリア出兵などを見てきましたが、どれも日本が侵略して満州に兵を向けたことは立証されませんでした。これまで検証してきた歴史的な事実によって日本は満州に権益を保持したのです。

 また、日本の右翼だけでなく一般国民の中においても、孫文や蒋介石の亡命を手助け、その後も積極的に彼らを支援して支那大陸に多くの日本人が渡って行った事実も紹介してきました。その中から満州においては馬賊のリーダーになった日本人や幹部となった方々も紹介しました。

 これから、いよいよ満州事変から支那事変と歴史は動いていきますが、この度、2月28日付産経新聞に「張作霖爆殺はソ連が実行」というロシア歴史学者の説が紹介されました。これは、これまでの戦後史を根底から変える大きなものであり、これを取り上げたいと思います。

 前に書きましたが、満州にいた馬賊のリーダーであった張作霖は日露戦争の時にロシア側のスパイとして働き、日本軍に逮捕されました。この時作戦課長であった田中義一(後の首相)は、日本に寝返る条件で命を助け、その後の張作霖は親日の馬賊として日本に協力してきた。

 これまでこの張作霖については、日本軍が列車ごと爆殺してしまったというのが定説となっていた。しかし、どう考えてもこれは理解できない部分があった。蒋介石軍が着々と勢力を伸ばし満州に迫る中で、親日的な馬賊の頭領をなぜ日本軍が爆殺したのか?納得いかない部分が多かったのである。

 驚愕した田中首相はこれをひた隠しにして曖昧な処理を図ってきたために、その責任をとって辞職した直後に急死した。おそらくは失意のあまりの自殺であったのではないかと云われてきた。自分が助けて協力させてきた張作霖を死なせてしまい混乱していたのであろう。

 何故、このことが隠されてきたのかが、今回のロシア歴史研究家の説でおぼろげながら見えてきた。田中は日本軍が殺したとは信じたくはなかった、いや信じられないからこそ、すぐに明るみに出せなかったのだろう。しかし、後世の歴史家は日本の満州国支配への野望としてこの事件を糾弾してきた。

 ではその問題の記事をポイントだけ紹介することにしましょう。

張作霖爆殺「ソ連が実行」
 関東軍によって1928年6月4日、中国北部で爆殺されたとされた張作霖。しかし、真相は、その反ソ的姿勢に重大な脅威を抱いたソ連特務機関が手を下し、関東軍の仕業に見せかけた―。

 ソ連・ロシアの特務機関の活動を専門とする歴史家、ドミトリー・プロホフ氏はこのほど本紙(産経新聞社)にそう語った。「日本による中国侵略の第一歩」とされる張作霖爆殺事件の�狄身反有瓩魯熟△覆里�。だとすれば歴史を書き換えることになるだけに事件をめぐる議論は今後、活発になりそうだ。
(サンクトペテルブルク 内藤泰朗) 

※ 詳しい内容は続きを押してお読み下さい。

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2006年02月23日

「反中国講座」�┘熟△龍謀貔鑪�と満州

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「反中国講座」��

先の第二次世界大戦において、アジアで最大の得をしたのか誰か?

 これを考える事は意味のないことではない。なぜならば結果的に得をしたのか。或いは得をしようとして行動して来たかを知る事は、偶発的な衝突と言われた盧溝橋事件や満州事変、支那事変と呼ばれた戦争がどのような性格を持つものだったかが伺い知れるからだ。

 あの戦争で一番得をしたのは共産主義者であった。アジア大陸の共産化、すなわち“監獄化”に成功した。ヨーロッパにおいてヒトラーに勝利したチャーチルは、間もなく東欧一帯が「鉄のカーテン」に閉ざされた実情を目の当たりにして「我々は戦う相手を間違えてしまった」と感嘆したという。

 連合国側の中心であった米国においてさえも、「本当に勝利だったのか?」との声が挙がったほどであった。日独伊の枢軸を叩くのに性急で、共産主義者の恐るべき侵略性に、あまりにも鈍感であった。国際ユダヤ勢力は米ソ超大国による世界分割統治を望んだので、その思惑は果たせたという説もあるが、大半の一般の国民にとっては不満の残る結果であった。

 ご存知のようにマルクスの唱えた共産主義とは全世界の共産主義革命であり、ロシアだけの一国の革命には飽き足らず、全世界の共産主義革命に激を飛ばした。1921年7月、コミンテルンの主導により、陳独秀や毛沢東らが中国共産党を設立した。

 コミンテルンとは1919年3月にモスクワにおいて21ヶ国の代表が参加して設立。共産主義思想の普及、革命家の育成、ロシア革命の世界革命化などが目的であった。このコミンテルンの日本支部として1922年日本共産党が誕生している。中国共産党にしても日本共産党にしても発足時はソ連の世界革命の工作機関に過ぎなかった。

 ソ連は支那と特に日本が権益を持つ満州に於いては明確な極東戦略を立てていた。日露戦争で日本に譲り渡した以上の権益を1920年代初頭には獲得していた。外蒙古を衛星国化し、カザフスタンから東部トルキスタンへと触手を伸ばし始めていた。

 また、帝政ロシア時代からの北満の権益を継承。東支鉄道を動脈とし、ハルピンを拠点として全満州の赤化を狙っていた。満州は当時は最貧の社会で混乱し無秩序の状態だった。特に匪賊といわれる夜盗が出没する所でもあったのである。

 このような社会状況こそ共産革命の良き土壌であり、彼ら共産主義は甘い囁きをもって民衆に浸透しようと工作していた。満州において支配権を持っていた軍閥の指導者・張学良は、ソ連を排除するために軍事行動にでるが、ソ連軍の反撃を受けて追いやられてしまう。

 この張学良の父は張作霖であるが、彼は日露戦争でロシアのスパイとして活躍するが、日本軍に捕縛される。危うく処刑されるところであったが、張に見所を認めた陸軍参謀次長・兒玉源太郎に助命された。この時、張の助命を伝令したのが後に首相として張と大きく関わることとなる田中義一(当時は少佐)であった。

 この張学良の敗退によってソ連軍の勢力は前にもまして増幅して行った。ソ満国境の警備は疎かとなり、日本軍はこれまで同盟関係にあった張学良軍の敗退と、それに伴う新たな困難に直面することになって行った。それは張学良軍が日本の意のままに動かなくなった事である。

 北からは共産軍、東からは孫文の後を継いだ蒋介石軍が迫る中で、張学良軍は全く独自の動きを強めて行くが、これに日本が日露戦争の勝利で得た権益にも絡み始め、日本も最早のんびりと構えていられる状況にはなくなっていったのである。

 満州事変に至る重大な要因というものは、日本が満州を支配する野望から起きたものではなかった。それは一つには共産主義勢力から日本の権益を守らんがために決意せざるを得ない苦汁の選択でもあった。

 日本の軍部首脳はこの時、支那大陸への侵略の野望は全くなく、逆に満州での駐留がやがては必然的に日ソ戦争を誘発するものであり、それを覚悟していたほどであった。

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2006年02月21日

大陸に夢を見た若武者たち

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「反中国講座」��

 今回は満州の野を駈けた日本人について述べて見たい。

 大正14年日本で発売されていた『日本少年』という雑誌に「馬賊の唄」という小説が連載されていた。支那大陸は当時の日本の若者にとっては夢の大陸でもあった。支那の広大な大陸に渡った主人公「山内日出男」少年が白馬に跨って悪を懲らしめ大陸を疾駆する熱血冒険小説である。

 このような小説が大いに若者の心を捉えたのは、当時の国力膨張期における日本人一般のメンタリティーの顕現でもあった。馬賊の唄には有名な「海のかなたにゃ支那がある〜♪」一節がある。これを以ってして、当時の日本が支那大陸に攻め込むつもりだったと早とちりしないで欲しい。これはあくまでも冒険小説の中での話である。

 しかし、このような小説に憧れ多くの日本の若者が満州の地に渡った。そして彼らの中には満州で群雄割拠していた馬賊の頭領にまで登りつめた人がいたのである。また、このように満州に渡った多くの日本人は“満州浪人”と呼ばれ、現地の人達に溶け込みリーダー的な存在となった。

 もし現在、共産中国が言っているように、侵略者の手先として満州に渡っていたなら、彼らがそれだけの地位に就き尊敬を集めることなどなかったはずだ。数奇な運命を生きた彼らについて見ていくことにしよう。

 では、そもそも馬賊とは何であったのか?ネットのフリー百科から取り出して見る。
馬賊(ばぞく)とは、騎馬の機動力を生かして荒しまわる賊。 清末から満州国期に中国東北部(満州周辺)で活動していた、いわゆる満州馬賊が有名。

 馬賊というと「盗賊団」的なイメージが強いが、元々は自衛組織(土匪・匪賊)の中の遊撃隊的な組織であった。 というのも、当時の満州では清朝の衰退によって治安が悪化しており、盗賊がはびこっていた。 これに対抗するため民衆は自衛組織を作り、盗賊に対抗していたのである。 但し、満州内の混乱が進むにつれ、力を持った馬賊が本来の「自衛」を越えて盗賊的な行為も行なう場合があった。

 馬賊の頭目にまでなった日本人の中でも伊達順之助、小日向白朗、薄益三の三名は特に有名である。伊達順之助は伝説で語られるほどの活躍を見せた。日本での出自はあの「独眼流」伊達政宗公の子孫というから物語としては最高である。馬賊の頭領となり後は関東軍に協力して敗戦の日に国民党政府工作員に捕まり銃殺されている。

 小日向白朗は16歳で単身支那に渡り、陸軍密偵として蒙古潜入中に馬賊に捕われたが、才気と度胸で満州馬賊を束ねる大頭目にのし上がり、満州民衆の伝説的ヒーローになったという。小日向白朗は抗日運動に参加した馬賊に協力した。日本敗戦の日に逮捕されたが後釈放され北京で余生を送ったとされる。

 薄益三も満蒙独立を掲げる馬賊や志士らを組織して、独立義勇軍を決起させるが、日本軍はこれを無視して彼は憲兵隊に捕まり国外退去となる。しかし日本で収監されるが、また満州に渡った。これら三名以外にも頭角を現わした人物はたくさんいるが、根本豪もその一人である。国民党軍に対抗して馬賊を組織して暴れまくった。

 彼らの所属した馬賊とは統制の取れた戦闘集団で、一つの組織には少なくとも2000人以上がいたとされている。彼らは日本人でありながら中国名を名乗り、支那の土地に自らの骨を埋めようと決意した者達であった。彼らは満州の人達から「兄弟」と呼ばれていた。

 このように馬賊に身を投じた日本人を日本軍の手先とする論がまかり通ってきたが、それは間違いである。彼らは軍部の手先などではなく、ただ夢と浪漫を求めて満州に渡ったのである。日本軍と蒋介石軍との戦争に巻き込まれ、ある者は皇軍に協力する道を選び、またある者は日本人でありながら自分の夢に投じたのである。

 馬賊は日本の敗戦とそれに続く中華人民共和国の成立とともに終焉を遂げた。明治以来、青少年の血を湧かせた馬賊も、過去を舞台にした小説は別として、最早、青少年の血を沸かすことはない。しかし、我々は彼らが「侵略」的な意思を持ち合わせていなかった事実だけは確認しておきたい。

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2006年02月16日

満州の潜在主権とは何か?

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「反中国講座」��

満州の地方軍閥に協力して治安の維持を図っていた

 満州及び満州国における日本軍の存在は、その後の日本軍が国民党軍(蒋介石)及び中国人民軍(毛沢東)との戦いに発展しただけに、それが「侵略」だったか「進出」だったかは大変重要な点となるでしょう。そこで、これまで日本軍が満州に進駐した経緯というものが「義和団事件」「日清戦争」「日露戦争」「シベリア出兵」とその都度の状況を学習してきました。
 いずれの場合においても日本軍が侵略を意図して支那大陸に渡ったのではなく、「破壊分子の鎮圧」や「共産主義の南下」を食い止めるために進出してきたことがはっきりしています。それでは今回は満州とは歴史の中でどのように位置づければ良いのか、そのことを学習してみたいと思います。

 後に詳しく触れるが、満州に展開した関東軍参謀部作戦部長の石原莞爾中佐は満州について次のように語っている。
「由来、満州の地は支那のものであるが、支那本部とは違う。昔は朝鮮人、満州人、蒙古人などが住んでいた。明治以後、日本人も多く入ったが、つい最近までは漢民族は南の小部分にしかいなかったので、いわば満州の地は諸民族共同の財産であった」

 この主張に現在の中国共産党は反発するだろう。しかし、中国という国家は共産党が銃剣によって少数民族を支配して創り上げられた多民族国家であり、旧ソビエトが瓦解した時に中央アジアやバルト海沿岸諸国が独立したごとく、各民族が独立する可能性が極めて強い「幻想の帝国」なのである。

 具体的に歴史を遡りながら、満州の主権が当時どこにあったのか、それを見ていくことにしたい。私はこの主権という言葉は満州には当たらないと考える。もし、どうしても主権という言葉を用いるとするなら、それは<潜在主権>と呼ぶべきではないだろうか。

 満州とは支那大陸を長期に渡り支配した清国の故郷の地であり、漢人には元々縁の薄い土地であったことは確かだった。満蒙人(満州人・蒙古人)は漢人を寄せ付けず、漢民族が満州に移住することを拒否してきた。

 しかし、18世紀に入り、清国が次第に弱体化し且つロシアが進出すると、これに危機感を抱き有史以来の異例の措置として封禁令を緩和して漢民族やその他の民族の移住を認め始めた。しかし、治安が悪く移住が本格化してきたのは、日本がロシアを打ち負かして追い払った後であった。

 明治45年2月に清国は滅亡するが、それまでの主権は清国にあったことは言うまでもない。しかし、清国が滅亡した後に一体誰が満州を事実上支配していたかと言うと判然としない。大正から昭和初頭まで支那大陸においては各地方軍閥が割拠して勢力を誇示していた。

 つまり明確な支配者など存在せずに無政府状態が続いていたのである。このような無政府状態の中で漢民族が満州に雪崩れ込んだ。その数は3000万人をゆうに超えたという。孫文が日本の支援者に約束した「満州は日本に一任する」との案は有名無実と化したのである。

 ところで満州における最大の軍閥は張作霖であった。張作霖は日露戦争でロシア側に協力して日本軍に捕まったが、当時、作戦課長だった田中義一(後の首相)に助けられた。張作霖は日本側に寝返って、今度は日本軍に協力して力を伸ばし大勢力を築いた。当時、張作霖の軍隊は22万を越え、1万人の日本軍を大幅に上回っていたのである。

 装備の上でも張作霖軍閥の方が上であった。日本軍は満州を支配していたのではなく、張作霖に協力しながら治安の維持や居留移民の保護を行なっていた。満州事変が起きる前の状況とはそのようなものであり、日本軍が圧倒的な兵力を展開して凌駕していた如く語るのはお門違いである。

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