2006年04月07日

漢人を飢餓と内乱から救った満州国

「反中国歴史講座」 ��

満州国になだれ込んだ漢人

 昭和6年9月18日に満州鉄道が爆破され、それを契機に満州駐留日本軍(通称・関東軍)は一斉に中国軍(張学良の軍閥)に対する攻撃を開始する。これが満州事変の始まりだが、これを日本軍の謀略であり、満州占領を目的とした計画的な侵略行為であるとされてきた。

 しかし、当時の満州における日本軍の兵員数は一万強、対する中国軍閥軍は22万人であり、装備の面では関東軍を凌いでいた。果たして謀略だけでこの戦争を引き起こすことが可能だったのか?

 当時の満州民衆は3千万人といわれた。1万人2千の兵員で満州国を支配できるなどと常識的には考えることは出来ない。これはどいうことかと言えば、謀略と云われるが、その根拠は極めて曖昧なものであることの証左である。

 清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)が元首に就いた。満州王朝が先祖の地で、再興された形となったのである。満州国は日本が作った「傀儡」と批判されるが、当時、蒋介石は毛沢東一派をモスクワの「傀儡」と呼んでいた。

 満州国は当時の支那大陸においては、最も平和で安定した地であった。それは数字が示している。満州事変時に3千万人の人口は、満州国建国後においては、毎年100万人づつ増え、10年後には4千3百万人にもなっていた。

 日本からも満州に渡った人は多かったが、それは全体から見ればほんの僅かな開拓者でしかなかった。大半の者は支那大陸における内乱と飢餓から逃げ延びてきた漢人であったのだ。

 満州国は13年という短命に終わったが、人口は増え続け5千万人を超え、不毛の大地と呼ばれた満州には重化学工業が栄え、飛躍的に発展した。満州国こそは当時のアジアにおいては、民衆の理想郷だったのである。

 次回から戦略家・石原莞爾について、書いて見ることにします。興味のある方はどんどんコメントください。もう15年以上も前になるでしょうか。石原莞爾にひかれ本を読んだものです。

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2006年04月05日

満州は中国の「もの」ではない!

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満州は中国に支配されている(遊就館)

 先週テレビ朝日の『サンデープロジェクト』に出演した安倍官房長官に対して、コメンテーターの一人が靖国神社の遊就館について、次のような質問を浴びせた。

「遊就館は大東亜戦争を肯定しており、満州国は現在中国政府に支配されているとの主張がありますが、どう思われますか?」

 安倍官房長官は「直接そのことには関しては知らないが、言葉の前後には天皇のお言葉があり…」と続けたら、その言葉が終らぬ内に、司会者の田原総一郎氏が「それじゃ、天皇陛下が最大の責任者」とか何とか発言してうやむやとなってしまった。

 このことについて考えて見よう。満州は古来、漢民族の領土ではなく、漢人は万里の長城以北を「北秋」の地として蔑称していた。漢人にとって万里の長城以北の住人は蛮人であり、紛れもなく異民族であった。

 よって、これを現在の漢人を主体とする共産党政権が支配していると書いても、それは何ら間違いではなく、正しい歴史認識に他ならない。逆にこの質問者に問いただしたいことがある。

 例えばウイグル自治区やチベット自治区、更には内モンゴルは歴史上古来からの中国領土と言えるのか?もしそれらは侵略され支配されたとするなら、何故日本が建国に係わった満州国だけが例外となるのか、納得の行く説明が聞きたいものだ。

 むろん、満州国を日本の「もの」であると主張するつもりはない。しかし、これまでの『反中国歴史講座』で幾度も述べてきたように、満州における日本の立場や権益は、日本人が満州の住民から奪い取ったものではない。

 満州は義和団事件の発生後、ロシアの侵略を受け、事実上ロシアによって支配されて植民地状態にあった。それを日本が日露戦争に勝利して、その結果としてロシアから譲り受けたものであった。

 そのような歴史的な経緯があったからこそ、孫文は内田良平ら支那革命を支持した日本の右翼(国士)に対して、日本との共同による新しい国創りを認めたのである。ここから大アジア主義理想は具体化して行った。

 また、馬賊の張作霖は山本条太郎満鉄総裁に、蒋介石は田中義一首相に、それぞれ満州における日本の優先権を認めたのである。このような歴史の事実がある以上、満州国が日本の肝いりで建国されたとはいえ、そこには十分な理由が存在したのである。

 今日からまた反中国歴史講座を再開します。

 
結果的に満州国の失敗は、その後の日本軍国主義の支那侵略の象徴として喧伝され定着してしまった。しかし、それは一方的に侵略などと批判されるものではなかった。

 現在、我が国の伝統的な右翼の中には、米国との連携よりはアジア主義に則って中国との友好関係を樹立すべきと主張する人も見られる。であるなら、それは取りも直さず、アジア主義者が掲げた「理想の国家」=「満州建国」を正しく捉えなければならない。

 侵略思想の結果としての満州建国ではなく、大アジア主義の構想としての満州国建国であったことを知らねばならない。そのような観点から今後書き進めていきたいと思います。特に石原莞爾の思想などについても考えてみることにします。

 この企画はあくまでも歴史の検証であり、かつてのアジア主義を今日の東アジアへと回帰させる意味はまったくありません。私はもう日本は支那大陸には係わるべきではなく、米国や豪州との連携の中で東南アジアやインドとの友好関係を築くべきとの考えであります。

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2006年03月17日

罠にはまった日本軍

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蘆溝橋事件は中国共産党の仕業《最終回》

 この事件で日本側には責任は一切ない。現地における日本軍は穏健であり、政府も軍中央部も不拡大方針であった。中には強硬論もあったが、下手をすれば北支の権益を総放棄しなければならず、支那側は勢いづいて満州にまで攻め上がって来るかも知れないことを考えれば至極当然のことだった。

 日本側は最初から慎重な姿勢であった。それ故、二度も派兵を決定しておきながら、派兵を二度とも中止して事態の推移を見守っていた。日本にはソ連軍の存在が脅威となっており、深入りすることへの憂慮が働いていた。

 しかし、支那側は既に国共合作で一致して抗日に固まっており、事態は沈静化の方向には向かわずに、逆に度重なる停戦協定違反で日本軍は苦境に立たされていた。

 7月26日に北京城内に帰還した日本軍が銃撃された公安門事件、7月29日には通州で邦人居留民(朝鮮人を含む)200余名が虐殺された通州事件が発生。忍耐の限界を越え隠忍自重していたが、遂に開戦を通告、反撃に転じたのである。

 しかし、日本はその後も和平への努力は続けた。支那側のメンツも重んじて、満州事変以後に日本が北支や内蒙で築き上げた一切の権利を白紙に戻すという寛大な提案も提示して交渉が試みられたが、米ソの支援を得られると考えた支那側は日本提案を拒否した。

  支那側は上海へも中央軍六万を動員して包囲した。当時上海には3万人の居留民と海軍船舶港があった。上海は西欧列強のビルや倉庫が立ち並び中国人居住区とは別けられていた。

 日本軍が上海を無差別爆撃したというが、爆撃されたのは中国人街ではなく、日本人が住むところであった。支那側の攻勢を食い止めるにはどうしても日本は出兵しない訳には行かなかったのだ。

 対日戦争を仕掛けようとしていたのは蒋介石軍と共産軍であり、日本は泥沼の罠に嵌ってしまったのである。近年、「日中両国の不幸な歴史」という言葉をよく聞かされるが、それを望んだのがどこの側であったのか、偏見なき観察者には明らかであろう。

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Posted by the_radical_right at 19:05 │ mixiチェック

2006年03月16日

蘆溝橋事件は中ソ共同の策謀?��

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写真:現在の盧溝橋

「反中国歴史講座」��

左翼御用学者によってでっち上げられた日本軍仕掛け説!

 これまで日本軍による戦線拡大を意図した一方的な発砲が原因で起きたと云われてきた蘆溝橋事件だが、今、ネットで検索すると、この事件の真相は毛沢東の共産軍の陰謀という説がかなり濃厚となっている。

===== 蘆溝橋事件の真相 =====

 最初の発砲はどちらから行われたか?とは永年の研究対象とされていたが、今日では「最初の射撃は宗哲元指揮下の国府第29軍に潜入していた中共側である」とする説が有力である。また北京に潜入し劉少奇にそそのかされた北平大学、精華大学の学生を中心とした学生ゲリラがそれを支援していた、とも言われている。
 中共は7月8日早朝、述安の本部から全国へ「蘆溝橋で日本は攻撃を開始した。全国民衆の愛国運動を結集して侵略日本に立ち向かうべし」とする電報を発信している。この打電時刻は日支両軍司令部でさえ事態の真相をつかんでいない時で、この時点でこのような電報が打電されたことは、中共が影でこの事件を画策していたことを十分推察される。
 またモスクワのコミンテルン本部も、 あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かねばならない。 そのためにはあらゆる手段を利用し 民衆工作によって彼らに行動を起こさせ、国民政府を戦争開始にたち到らしめる。といった指令を発している。
中共当局はこれらの指令に基づき幾度も停戦協定を破った。その後日本側から働きかけた事変解決の和平交渉をすべて流産せしめたのである。
【近代日本戦争史概説】より引用

 もう、これらのことは常識となっているので、違った角度から論じてみることにしたい。
 「南京大虐殺」をデッチあげた有名な洞富雄早稲田大元教授だが、この人は南京大虐殺だけでなく、日本軍発砲説を唱え執拗に喧伝してきた。
 このような学者は共産中国がこの問題に触れる前から、勝手に日本人発砲説をでっち上げ、様々な憶測や推測を交えつつ、同事件が日本軍によって仕組まれた「可能性」をデッチ上げてきた。

 日本兵が行方不明となり、その捜索を支那側に要求したなどはまさに噴飯ものであった。これは事件発生翌日の1937年7月8日の支那の新聞「大公報」に掲載されたもので、支那側が日本軍の「捜索要求」を拒否したので、日本軍が攻撃を仕掛け、中国軍は自衛のために応戦したというものだ。

 これは捏造記事だった。その後の停戦交渉の中でそれは明らかになったことだが、左翼教授らはそんなことはお構い無しに自分達に都合の良い、つまり日本を断罪するためだけに精魂を傾けている。

 この左翼教授に限らず、日本の戦史に関しては驚くべきことに直接日本の兵士に聞くことなく、一方的に支那の新聞や書籍、或いは証言に基づいて、それを基礎に論を構築する傾向が見られた。

 とにかく、「日本が悪い」という先入観が先にあって、それによって「罪状」を日本に押し付けてきた。
 このような習癖は実際に支那大陸で戦われた日本兵士を冒涜するだけでなく、著しく日本国家の名誉も毀損したのである。このような左翼御用学者、進歩的文化人らが日本を罪悪と暗黒に満ちた国家にしようと血道をあげたのだった。

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Posted by the_radical_right at 17:59 │ mixiチェック

2006年03月10日

誰がこの事件の仕掛け人?蘆溝橋事件

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「反中国歴史講座」��

蘆溝橋事件は中ソ共同の策謀?��

 中国共産党の設立経緯については、前にも述べたようにモスクワを総司令部とするコミンテルンの一機関として誕生し、事実上ソ連の手先であった。私たちは戦後の中ソ対立や自主独立路線を思い浮かべるので、戦前においても独自の戦いをしていたように勘違いしがちである。

 この点をよく押さえておく必要がある。何故かと言えば毛沢東の人民解放軍は支那大陸においては、共産主義の唱える暴力革命の一環として戦争を引き起こしたものであり、「抗日救国」のスローガンの救国などは後付けに過ぎない。

 毛沢東の最初の頃の最大の敵は日本軍などではなく、蒋介石率いる国民党政府であった。孫文の後を継いだ蒋介石は清王朝を倒し、毛沢東の共産軍や周辺の異民族(満州馬賊や蒙古軍)の征伐に当っていたのである。

 1936年(昭和12年)12月、蒋介石は西北において、掃共戦を督励中、共産軍と共謀した張学良軍に拉致監禁された。この時に馬賊や共産軍と共闘して日本軍と戦う「一致抗日」を誓わされた。

 張学良は蒋介石に従っていたが、父・張作霖を日本軍に爆殺されたと思い込んでおり「抗日気運」が高まっていた。張学良は蒋介石との会談中に拉致して、強引に共産軍との和解を迫った。

 またこの時期、対ソ防衛のために内蒙工作を推し進めていた関東軍が支援していた蒙古軍が傳作義軍に大敗してしまった。共産軍は支那全土において、あたかも関東軍の精鋭部隊が敗北したかのように反日キャンペーンを展開した。

 昔も今も中国共産党は謀略宣伝工作に長けており、このような工作は蒋介石をも篭絡した。蒋介石は共産勢力の鎮圧を中止して、支配地域においては親日分子への弾圧を強めていった。

 この翌年の1937年7月7日に日本側からの発砲だとされる蘆溝橋事件が発生した。この事件は日本軍が支那大陸の支配を狙って仕掛けられたとされて来たが、この頃の状況はとても日本軍から仕掛けられるほど楽観したものではなかった。

 起こるべくして起きた事件であるなら、誰がこの事件の仕掛け人であるかは、今更言うまでもないことだろう。

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