「反中国歴史講座」 ��
満州国になだれ込んだ漢人
昭和6年9月18日に満州鉄道が爆破され、それを契機に満州駐留日本軍(通称・関東軍)は一斉に中国軍(張学良の軍閥)に対する攻撃を開始する。これが満州事変の始まりだが、これを日本軍の謀略であり、満州占領を目的とした計画的な侵略行為であるとされてきた。
しかし、当時の満州における日本軍の兵員数は一万強、対する中国軍閥軍は22万人であり、装備の面では関東軍を凌いでいた。果たして謀略だけでこの戦争を引き起こすことが可能だったのか?
当時の満州民衆は3千万人といわれた。1万人2千の兵員で満州国を支配できるなどと常識的には考えることは出来ない。これはどいうことかと言えば、謀略と云われるが、その根拠は極めて曖昧なものであることの証左である。
清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)が元首に就いた。満州王朝が先祖の地で、再興された形となったのである。満州国は日本が作った「傀儡」と批判されるが、当時、蒋介石は毛沢東一派をモスクワの「傀儡」と呼んでいた。
満州国は当時の支那大陸においては、最も平和で安定した地であった。それは数字が示している。満州事変時に3千万人の人口は、満州国建国後においては、毎年100万人づつ増え、10年後には4千3百万人にもなっていた。
日本からも満州に渡った人は多かったが、それは全体から見ればほんの僅かな開拓者でしかなかった。大半の者は支那大陸における内乱と飢餓から逃げ延びてきた漢人であったのだ。
満州国は13年という短命に終わったが、人口は増え続け5千万人を超え、不毛の大地と呼ばれた満州には重化学工業が栄え、飛躍的に発展した。満州国こそは当時のアジアにおいては、民衆の理想郷だったのである。
次回から戦略家・石原莞爾について、書いて見ることにします。興味のある方はどんどんコメントください。もう15年以上も前になるでしょうか。石原莞爾にひかれ本を読んだものです。
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