誰がこの事件の仕掛け人?蘆溝橋事件
「反中国歴史講座」��
蘆溝橋事件は中ソ共同の策謀?��
中国共産党の設立経緯については、前にも述べたようにモスクワを総司令部とするコミンテルンの一機関として誕生し、事実上ソ連の手先であった。私たちは戦後の中ソ対立や自主独立路線を思い浮かべるので、戦前においても独自の戦いをしていたように勘違いしがちである。
この点をよく押さえておく必要がある。何故かと言えば毛沢東の人民解放軍は支那大陸においては、共産主義の唱える暴力革命の一環として戦争を引き起こしたものであり、「抗日救国」のスローガンの救国などは後付けに過ぎない。
毛沢東の最初の頃の最大の敵は日本軍などではなく、蒋介石率いる国民党政府であった。孫文の後を継いだ蒋介石は清王朝を倒し、毛沢東の共産軍や周辺の異民族(満州馬賊や蒙古軍)の征伐に当っていたのである。
1936年(昭和12年)12月、蒋介石は西北において、掃共戦を督励中、共産軍と共謀した張学良軍に拉致監禁された。この時に馬賊や共産軍と共闘して日本軍と戦う「一致抗日」を誓わされた。
張学良は蒋介石に従っていたが、父・張作霖を日本軍に爆殺されたと思い込んでおり「抗日気運」が高まっていた。張学良は蒋介石との会談中に拉致して、強引に共産軍との和解を迫った。
またこの時期、対ソ防衛のために内蒙工作を推し進めていた関東軍が支援していた蒙古軍が傳作義軍に大敗してしまった。共産軍は支那全土において、あたかも関東軍の精鋭部隊が敗北したかのように反日キャンペーンを展開した。
昔も今も中国共産党は謀略宣伝工作に長けており、このような工作は蒋介石をも篭絡した。蒋介石は共産勢力の鎮圧を中止して、支配地域においては親日分子への弾圧を強めていった。
この翌年の1937年7月7日に日本側からの発砲だとされる蘆溝橋事件が発生した。この事件は日本軍が支那大陸の支配を狙って仕掛けられたとされて来たが、この頃の状況はとても日本軍から仕掛けられるほど楽観したものではなかった。
起こるべくして起きた事件であるなら、誰がこの事件の仕掛け人であるかは、今更言うまでもないことだろう。
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Posted by the_radical_right at 19:19│
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反中国講座
瀬戸さんへ
小生なぞにご厚情戴き有り難うございます。ご連絡を拝見し少々驚いております。小生、パソコンを始め未だ3ヶ月足らずの初心者で、文筆業とは凡そ関係のない稼業に就いておるります。HNの通り市井の小市民です(笑)。
周囲でパソコンを趣味とする知り合いが居らぬものですから、何分にも、これまでメールなるものを送信したことがございません。早速マニュアルを引っ張り出し、送信法を習得して、ご返事させて戴きたく存じます。
取り急ぎご連絡までに・・・。
怒る小市民さんへ
いつも、素晴らしい文章ありがとう御座います。個人的なことを尋ねては申し訳ないが、文書が上手ですね。何か文筆業と係わり合いがあるのでしょうか。当方は4月から新しい月刊誌の仕事を受けており、現在ライターを募集中です。興味ありましたら、メールにてお知らせください。ジャンルは環境関連の雑誌です。
各位
現在新しい雑誌「環境関連」の仕事を引き受けることになっております。どのような環境関連の記事でもけっこうです。採用させて頂いた場合は謝礼は少しですが支払いさせて頂きます。ご協力ください。
「自然の再生と共存」このテーマは私の政治目標とも一致するものです。
今日午前中は農作業を手伝ってきました。自然とは本当に良いものです。
屋根の上のミケさんへ
ありがとう御座います。丁寧なコメント感謝します。この事件が共産軍の謀略であったことはもう言うまでもないことです。現在はこのように多くの人が真実に触れることが出来るので、少しづつ正しい歴史が回復されてきました。これまでは一方的に日本軍が最初に撃ったとされてきました。
このことは「反中国歴史講座」の中で引き続き行いますが、もう真実は既に明らかとなっているので、当時の背景、それからこの事件の「日本人説」を唱える日本人学者や教授達にスポットを当て別な視点より見ていきたいと考えております。
>屋根の上のみけさん
ありがとうございます、たいへん励みになります。日本が特亜の横暴を撥ね退けられるよう、微力ながらこの極右評論を応援してゆきたいと思います。共に頑張りましょう!。
怒る小市民さんへ ご意見に大賛成です。ミケ
瀬戸さん、お弟子さんこんにちは。
支那人の性質の狡猾さ非情さは、勝者が全てを獲得すると云う究極の弱肉強食が齎した結果ではありますまいか。この大陸に於いて生き抜き、勝者となるには自身が他者よりも腹黒く立ち回る必要があった。そして敗者には、ひたすら無慈悲な運命しか与えられなかった。集団全体の和を尊び、仮令、敗者であっても正直者には寛大な処置を施した日本とは、隔絶した深淵があります。日本と支那の謀略における優劣は、まさに奴らの過酷な環境が培った。良くも悪くも“公”の精神を優先させる日本が、21世紀の現在も猶、中国の謀略にしてやられるのは寧ろ当然の帰結です。日本は鮮人からは全く見習うべき要素はありませんが、一方で支那人のこうした悪辣な抜け目なさを学ぶ必要がありましょう。それが後々、対中国への報復に役立つのと共に、奴らの毒牙にかかり犠牲になった同胞への鎮魂になると考えます。
「一文字山の星空」
http://www002.upp.so-net.ne.jp/keisetu/00.htm
茅ヶ崎市傷痍軍人会会長 山崎 直人
一文字山というのは支那(現在の北京郊外)にある山の名前です。
昭和十二年七月七日、この山で行われた初年兵達の夜間演習中に盧溝橋事件が起きました。
ここのページには私が北京郊外の豊台に支那駐屯軍歩兵第一連隊第三大隊八中隊の夜間練習の時に発生した盧溝橋事件の思い出を語りたいと考えた。
七月七日お彼岸の夜の事 八十名前後の兵隊でありました。
日本が泥沼の日中戦争に、引きずり込まれたきっかけの事件。
この事件が、中国側から発射された小銃弾によって、引き起こされた
事実が、現場にいた兵士の貴重な体験談として語られています。
ぜひ、体験談のつづられたこのページをご覧になって下さい。
「一文字山の星空」
http://www002.upp.so-net.ne.jp/keisetu/00.htm
茅ヶ崎市傷痍軍人会 ホームページ
http://www002.upp.so-net.ne.jp/keisetu/
http://www002.upp.so-net.ne.jp/keisetu/00.htm
茅ヶ崎市傷痍軍人会会長 山崎 直人
ここのページには私が北京郊外の豊台に支那駐屯軍歩兵第一連隊第三大隊八中隊の夜間練習の時に発生した盧溝橋事件の思い出を語りたいと考えた。
七月七日お彼岸の夜の事 八十名前後の兵隊でありました。
世界中の一部の人が全然間違った事を平気で理論付けておるが実際は
事実は私達しか知らないのです。
盧溝橋事件の初弾を撃ったのは、誰か?
【最後の演習】
「待ちに 待った夜間演習が開始されるのだ 数秒後 仮すかに ぱん と音が聞こえ 私の右四、五メートルのところを鈍い音で飛んでいった」
http://www002.upp.so-net.ne.jp/keisetu/01.htm
盧溝橋事件の現場で、一兵士として最初の一発の銃声を聞いた89歳の生存者の証言です。実際に体験した人でなければ、語れない具体的で生々しい証言です。この一発が、日本と中国を泥沼の戦争に引きづり込んだのです。この最初の一発を撃ったのは、中国現地軍、中国共産党軍、日本軍のいずれだったのかを巡って歴史的な論争になっています。その論争に終止符を打つ貴重な証言です。
「一文字山の星空」プロローグ
http://www002.upp.so-net.ne.jp/keisetu/00.htm
盧溝橋事件の現場で、一兵士として最初の一発の銃声を聞いた89歳の生存者の証言です。実際に体験した人でなければ、語れない具体的で生々しい証言です。この一発が、日本と中国を泥沼の戦争に引きづり込んだのです。この最初の一発を撃ったのは、中国現地軍、中国共産党軍、日本軍のいずれだったのかを巡って歴史的な論争になっています。その論争に終止符を打つ貴重な証言です。その証言をつづった生存者のブログを順次転載させて頂きます。
<以下はコピー>
ブログ名「大正生まれのおじいちゃんの蛍雪日記」
http://blogs.yahoo.co.jp/naotopb37010/17003107.html
エリカさんへ
韓国人の崔基鎬(チェ・ケイホ)氏ですね。
靖国神社参拝で中国から激しい反発を受けた小泉首相が、その後、蘆溝橋と抗日戦争記念館を訪れるなどし、「少なくとも自己批判の姿勢を示した」と中国側は報道していましたね。確か2001年のことだったと思います。
私は、先月の「反中国講座�6�産主義との戦い」の時に、崔基鎬(チェ・ケイホ)氏の事を書きましたが、チェさんは
>小泉首相も小泉首相です。蘆溝橋に行って謝罪している。謝罪する必要はありません。日本がやったわけではないのです。撃たれた兵隊は、秋田の部隊で秋田にいます。私はインタビューして資料を取っています。
と書いていました。