2008年06月06日

未知のウィルスに感染! 中国で日本選手が!

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日本の有望選手が次々に不幸に遭遇

写真は絹川愛選手 

 本日の投稿コメントにあった、この件を取り上げないわけにはいきません!

 



【恐怖!中国で感染か!絹川が謎のウイルスで北京断念へ】
http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/news/20080606-OHT1T00047.htm

中国・昆明の高地トレで死亡 両親が日体大を提訴へ
http://www.asahi.com/kansai/sports/OSK200802020093.html

野口みずき、原因不明の発疹で緊急帰国
http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/news/20080308-OHT1T00152.htm

高橋尚子、失速理由は突然の体調不良 今後は海外マラソンも視野
 レース中にトイレにも駆け込んだが、直前の中国・昆明合宿で下痢になって数日間寝込んだこととの因果関係は不明とした。
http://sankei.jp.msn.com/sports/other/080310/oth0803101145014-n1.htm

Posted by ((;゚Д゚))ガクガクブルブル at 2008年06月06日 15:49


 これは全てが原因が不明となっています。

 特に絹川愛(めぐみ 18歳)の場合、謎のウィルス性感染症で出場断念に追い込まれたことです。
 治療方法も確立されていないというから、今後の選手生命すら危ういということにもなります。

 四川省の大地震で日本のテレビ局などが「感染症の恐れがあるので保健所が薬を撒いています」などと解説していましたが、よもやこのような恐ろしい感染症があるとは想像もしていませんでした。

 また、将来有望な水泳の日本選手が死亡していますが、この原因も不明のままです。未知のウィルス感染や、この水泳選手の謎の突然死は一体どのようなことなのでしょう?

 下記は2006年の事件です。

【中国】昆明で日体大の競泳選手が体調崩し死亡
男子自由形1500メートルで2位


 日体大水泳部に所属する競泳男子の宮嶋武広選手(20)が25日、 中国・昆明での合宿中に体調を崩して死亡したことが28日、分かった。
 大阪・近大付高出身の同選手は昨年の日本選手権で男子自由形の1500メートルで2位、 800メートルで3位に入った有望株。同大では4月の日本選手権に備え、 競泳の男女有力選手が2日から同地で高地合宿を行っていた。

 日体大に入った連絡によると、宮嶋選手は25日午後、プールでの練習中に突然けいれんを起こしたため応急処置を受けたが、 搬送先の病院で死亡した。現時点で死因は不明。残る選手らは予定を早め、28日夜に帰国する。

 日本の有望な選手が次々と、このような不幸な事態に陥っていることは単なる偶然とは思えません。何か非常に嫌な気持ちにさせる�犹�故�瓩任后�

 何故、日本の新聞社、テレビ局はこれを大々的に報じないのか?
 今日の夕方のテレビ・ニュースでは流していたが、これらの件についてはもっと以前から報道すべきでした。

 特にこの水泳選手の突然死が報道されていれば、絹川愛選手の事件は防げた筈です。
 今回、同じ昆明という場所で訓練しており、前の事故が大きく報道されていれば、この昆明を避けていたと考えられるからです。

 素人が余計なことを口にすべきではないとは思いますが、この絹川選手の場合、放射線を故意に浴びせられたということは考えられないのでしょうか。

 社会人デビュー戦と考えていた4月の織田記念(広島)などを次々キャンセル。仙台育英高卒業後も指導を続ける渡辺高夫監督は「練習による痛みとは思えない」と治療方針を変更した。都内の病院で放射線を利用したアイソトープ検査を受けると、骨の異常が判明。さらに特殊な方法による血液検査を行った結果、未知のウイルスに侵されていたことが分かった。

 治療に当たっている松元整形外科クリニックの松元司院長によると、赤血球を破壊し、白血球を変形させる凶悪なウイルスが血液を通じて骨や筋肉に付着。その炎症によって痛みなどを引き起こしていたという。絹川は同クリニックを訪れる前にも血液検査を受けていたが、異常は検出されていなかった。

 気になるのが、その感染場所だ。絹川は昨年3月に中国・昆明で高地合宿を行っているが、松元氏は国内で同様の例がなく、ほかの国へは行っていないことから「昆明の可能性が高い」と指摘した。昆明といえば、北京五輪でマラソン連覇を目指す野口みずき(シスメックス)らも合宿を行っている場所。それが事実なら、日本長距離界をも揺るがす問題だ。
 
 専門家の先生が未知のウィルスと言っているので間違いはないのでしょうが、白血球を変形させるという表現があったので、そのように感じました。

 話は変わりますが、シナ人の留学生と松代PCで「毒入餃子」問題でやりあった時に「日本人と違って中国人の体は頑丈だから何ともないよ、日本人弱過ぎね」と笑っていた女のシナ人留学生がいたことを思い出しました。

 シナ人は未知のウィルスでも適応しているから大丈夫などということなのだろうか?戦慄すべきことが近い将来起きるような気がしてならない。

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2006年11月28日

南京事件と松井大将

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南京事件と松井大将

写真:田中正明先生の不朽の名著

 東京裁判において松井石根被告(元陸軍大将)は南京事件の責任だけで死刑に処せられた。訴因の第一から第五十四までは全て無罪であったのに、第五十五のみが有罪として絞首刑になったのである。

 これを早くから冤罪であると訴えてきたのが、この松井大将に昭和8年から昭和17年12月に応招されるまで、約10年間を民間人として仕えた田中正明先生であった。

 私の日記にはこの田中正明先生との初めての出会いを、感動の一日として次のように記されている。

 「昭和61年11月13日(木) 私は大阪市天王寺区の浪速会館で、明日を考える時局講演会(教育シンポジウム実行委員会主催)に参加をさせてもらいました。

 講師は不朽の名著である『パール博士の日本無罪論』の著者である田中正明先生です。シンポジウムの名称は『過去・現在・未来・錯誤の中にある戦後史観・今こそ近・現代史の核心を問う!』と題されたものでした。

 司会は皇學館学校教諭・三輪尚信先生で、最初に福井大学教育学部助教授・小林道徳先生の講演がありました。当時、私はこのシンポジウムを開催した丸山栄一氏と親交があり連絡を受けたものです。

 なぜ、私がわざわざ大阪まで出かけて行ったかといえば、それは田中正明先生の話をどうしても伺いたいと思ったからです。先生の著書の愛読者でもありました。

 田中正明先生はこの講演の中で、東京軍事裁判の不当性について話をされました。私は先生の書物で初めて南京大虐殺といわれるものが、戦勝国によって捏造された虚偽の事件であることを知ったのです。

 この時の話を箇条書きにメモしてありましたので、それを綴らせて頂きます。

 東京裁判の狙いはいかに戦場における日本の軍隊が残虐であったかを世界中に喧伝するために持ち出されたものである。

 これは言い換えれば日本の皇軍とは秩序正しく、如何なる場合においても、そのような非道な振る舞いはしない―という、これまで世界の人達が認識していたものを崩すことにあった。

 そのために戦勝国はおびただしい証拠と証人をこの東京裁判に集中させた。しかし、その証拠及び証人の多くが伝聞であり、戦勝国側の現地における一方的な聴取であった。

 松井大将は南京の市民を保護する目的がありながら、その義務を履行することを怠ったとして犯罪者として絞首刑に処せられた。しかし、これはインドのパール判事が当時の東京裁判の意見書の中で述べているように極めて不自然なものだった。

 松井大将は当時南京は中国の首都であり、外国の特派員も多数おり、万が一にも民間人などを巻き込むことがあったら、それは世界中に打電されるとして、全軍に対して仔細なる訓令を出していた。

 それによれば、一般居留民並びに中国民衆を紛争に巻き込まないように常に留意して、外国出先機関とも密接なる連絡を保持するように命令を発していた。

 この命令は外国の権益を侵したり、民衆への略奪行為を行なう者は厳重に処罰するとあった。南京攻略に際して日本軍の虐殺があったとの報告は全くなかった。

 現に当時の外国の新聞に日本軍が虐殺したという報道は一行もなされてはいなかった。この事件が明るみになったのは東京裁判において、初めて提起されたものである。

 田中正明先生は処刑直前に松井大将から手紙を頂いた事を話されました。その手紙の文面には自らが冤罪で処刑されるにも関わらず、次のように記されてあったといいます。

 ―誰を恨み、何を嘆こうぞ、これで何もかもさっぱりした。このうえは自他平等の世を念じつつ永遠の眠りにつきたい―

 この手紙を書いたその日の夜、松井大将は「天皇陛下万歳!」と言いながら、静かにしっかりとした足取りで13階段を上って行ったそうであります。

 その後、何回か会合などで田中正明先生とはお会いする機会がありました。先生がよく口にされていたことですが、南京大虐殺の真意を語ることは、東京裁判を否定することになる。

 それは容易なことではないが、それをせずして日本国の再生は有り得ない。戦勝国はドイツに対しては『ニュルンベルグ裁判』でユダヤ人虐殺を人道に対する罪としてこれを裁いた。

 日本に対しても、どうしても人道に対する罪を被せる必要があった。それは自らの原爆投下に対する後ろめたさからであった。しかし、どうしても人道に対する罪など探しても見当たらない。

 そこで南京大虐殺などをデッチあげたのである。広島・長崎への原爆投下、日本の主要都市への空襲、これらの犠牲者の数を上回る大虐殺をどうしても、彼らはでっち上げたかったのです。

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2006年08月13日

石原莞爾先生を誹謗、読売の検証報告委員会

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『読売新聞』の呼称「昭和戦争」に重大な誤りと錯誤

 読売新聞社は『戦争責任検証委員会』なるものを設立。過去一年間に渡って「なぜ、あのような無謀な戦争に突入して行ったのか、どうして戦争を早期にやめられなかったのか―などについて検証作業を進め、随時紙面で報告してきた」とし、今朝の新聞でその総括を試みた。

 その中で先の大戦を「昭和戦争」と呼称することにしたとしている。これは「昭和天皇を念頭に置いたものではなく、昭和の時代に起きた戦争という意味で元号の昭和に冠したものである」としている。

 日本を代表する新聞社がこれ程誤まった認識を、半世紀も過ぎた今日宣言しようとは正直言って驚愕した。彼らがどのように言い繕おうとも、これでは戦争の性格・性質といったものが矮小化されてしまう。

 先の大戦は日清、日露戦争という日本の近代史の中で論じられなければならない。昭和の時代だけを浮き彫りにしたら、全体像は見えてこなくなる。

 明治・大正・昭和という時代の中にあって、日本が近代化の中で避けては通れなかった道が、戦争という形態でもあったのだ。それを遮断して「昭和戦争」とだけ名付けてしまったら、それこそ誤まった認識を広めることになってしまう。

 例えば満州問題とは日清戦争、日露戦争における日本の勝利が、満州地域への日本の権益として約束されたことに起因する。また、ロシア(旧ソ連)の南下に対する戦いといった側面が消されてしまう可能性もある。

 現に『読売新聞』はその歴史的な経緯に触れず「昭和戦争の出発点は1931年に起きた満州事変であり、それを引き起こした首謀者は関東軍の石原莞爾と板垣征四郎」と敬称もつけずに書いている。

 タイトルも「指導者責任・戦火の扉開いた石原、板垣」である。

 特に石原氏に対する記述は攻撃的だ!

 「『謀略により国家を強引する』という、陸軍中佐・石原らの満州への侵略行動は、文字通り日本を戦争へと引きずり込んでいった。石原の軍事思想の核心は、日米両国が東西文明の盟主として、戦争で世界一を争う世界最終戦争論だった」とまで言い切っている。

 石原先生の名誉のために書かせて頂くが、先生は単なる好戦家の軍人ではない。当時、誰もが考えつかなかった「戦争は進化している」という驚くべき法則を発表した。

 その法則によれば「戦争は決戦戦争、持久戦争の二つの類型を繰り返しながら進化発展を遂げており、近い将来、その発展は極限に達して最終戦争時代を迎え、ついにはこの地球上から姿を消す」と予言した。

 事実、第二次世界大戦後の地球において、世界的規模の戦争は起きていない。これをこの時代に断言したのは世界広しと言えど石原先生一人である。

 これほどの「先哲の予言」者に対して、まるで戦争の張本人扱いとは恐れ入った。では訊くが、何故石原先生は東京裁判において起訴されなかったのか?

 病弱を理由にしての起訴を免れたというような詭弁を弄すのだけはやめて欲しい。石原将軍を「昭和戦争」の張本人と名指しするなら、少なくとももう少し丁寧な解説をしなくてはならないだろう。

 読売新聞社の『戦争責任検証委員会』に是非教えておきたい事がある。

 歴史に嘘があってはならないからだ!

 読売新聞はこれまでの左翼が主張してきた事をそのまま踏襲している。即ち「軍部独断の謀略による満州事変、日本の満州建国は略奪目的の侵略行為」というものだ。

 しかし、実際は違う!

 満州国は蒋介石も認めた共産勢力の浸透を阻止する独立王国の建設であった。この時、石原氏は「一切の搾取をしてはならない。日本資本主義の進出を許さない、あくまでも五族協和・王道楽土の理想郷を建設する」としたのです。

 石原先生は三井・三菱財閥の満州進出を許さず、日本財界は「関東軍はいつから共産主義者になったのだ」と嘆いたほどだった。代わりに現在の日産や日立製作所などの会社が呼ばれたのである。

 日本は満州に侵略したのではない。共産主義の南下に備えて、明治以来の日本の権益と在留邦人の保護、そして満州民族を中心とした共存共栄の理想国家を目指したのである。

 発展のバロメーターである鉄鋼生産は昭和18年、日本国内の35パーセントにも達していた。不毛の地・満州をわずか10年で中進国並みに発展させたのである。

関連エントリーを挙げておきます

http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/50708334.html

http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/50702984.html

http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/50649488.html
「反中国歴史講座」より

こちらもコメントして下さい。本当に怒り心頭です。

韓国の国会議員らが靖国神社を訪れ抗議行動 Name としあき 06/08/13(日)00:26 No.542521  

 韓国の国会議員らが12日、東京・千代田区の靖国神社を訪れ、終戦記念日の参拝が注目される小泉首相を強くけん制した。

 靖国神社を訪れたのは韓国の与党・ウリ党の議員らで、小泉首相の靖国参拝について「指導者ならばよく考えて行動すべき」と述べ、終戦記念日の参拝を強くけん制した。さらに、靖国神社に対し、韓国人の合祀(ごうし)を取り消すよう求めた。

 議員らが訪れた際、参拝を支持するグループなどからの怒号が飛び交い、一時騒然となる場面もあった。

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn/20060812/20060812-00000052-nnn-pol.html

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2006年04月09日

帝国軍人の墓に毎年300人が(平成元年当時)

3f4a7005.jpg「反中国歴史講座」 ��

石原莞爾先生の予言「世界最終戦争論」(2)

 私は平成元年8月13日、盆休みを利用して石原莞爾先生の墓参りに出かけた。石原莞爾先生は満州における満鉄爆破の謀略の張本人とされた。石原先生はこの時42歳であり、関東軍参謀本部中佐であった。

 この頃の石原先生は「世界最終戦争論」を心に描き、来たるべき最終戦争の時代に備えていた。しかも、先生の描いていた最終戦争とは今、目の前に進行する満州馬賊や共産ゲリラ、ソビエト軍との戦いではなかった。

 石原先生が考えていた最終戦争の時代とは、まだこれから到来するものであった。だからこそ、その著「世界最終戦争論」とは予言の書であったのである。

 そう考えるなら、この時、石原莞爾陸軍中佐が謀略を用いてまで作戦を遂行する必要性など全くなかった。石原先生はこの満州事変後、戦争の拡大に反対し続け、結果的に軍を追われた。

 単なる軍人であれば、その行動や主張はその時々において変節し、一貫性がないと批判されるかも知れない。しかし、石原先生は戦争と文明は不可分の関係にあり、文明の発展と共に戦争の形態も変化し、戦争そのものが、やがて最終的な戦いを経て消滅する。

 このような理論を構築して世に示した方である。そのような先生が満鉄爆破による電撃作戦による敵の殲滅などという、古典的な作戦に固執して戦争を始めるはずなど絶対にないと私は信じる。

 さて昨夜の続きに入ろう。
 こんもりと高く積まれた山の上に石塔が立っていた。周りはきれいに掃き清められ、菊の花が飾られている。石碑には石原先生の唱えた「都市解体・農工一体・簡素生活」の文字が刻まれてあった。

 私の胸の中に大きな感動が起き、胸がジーンと熱くなるのを覚えた。  
 何故か目に涙が溢れ、ズボンに土がつくのも構わずその場にしゃがみ込んだ。暫しの間、時を忘れるほどに瞑想した。

 幽明境(さかい)を異にした先生の声を聞こうとしたが叶わなかった。考えて見ればまだ私は先生の声を聞くほどの人間ではなかった。しかし、嬉しかった。自分の探し求めて来たものと、やっと会えた。少年の頃の嬉しさとでも言ったら良いか、とても爽やかな気持ちであった。

 ふと周りを見ると、赤い郵便ポストが一つ目に入った。一体何があるのだろうと開けてみると、中には一冊の記帳簿と書かれた大学ノートがあった。

 それを開けた私はまたしても大きな感動を覚えた。そこに記帳してあったその人間の数の多さであった。私が行ったこの日の午前中にも一人の記帳が見られた。

 前年の8月の最初に書かれたその日から、それまでの間にゆうに300人を超える人のご記帳があったのである。遠くはブラジルのサンパウロやリオデジャネイロ、日本は北海道から九州まで全国一円に渡っていた。

 亡くなってもなお、今日、これだけ多くの人を惹きつける魅力を持った<帝国軍人>がいることに私は驚愕した。日本は戦争に敗れ、軍人は悪罵の限りが投げつけられてきた。

 しかし、ここに、この東北の寒村の片隅の山林の中に眠る<帝国軍人>は、多くの日本人が心からの親しみを持って、今でも忘れられないで来たのである。

 日本人はまだまだ捨てたものではない。正しいものを、正しいと思う心を忘れてはいなかった。
 
私は石原先生の墓に来たのが、如何に遅かりしかったか、自分の不勉強さに恥じたのであった。

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Posted by the_radical_right at 17:39 │ mixiチェック

2006年04月08日

石原莞爾先生の予言から学ぶ〔1〕

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「反中国歴史講座」 ��

石原莞爾先生の予言「世界最終戦争論」(1)

 今日は満州問題を語る上で絶対に避けることの出来ない戦略家・石原莞爾先生について触れてみたい。私は平成の時代が始まった頃に、急に石原莞爾先生について学びたくなった。

 冷戦の崩壊で戦争の危機が遠のいたと一般的には云われ、平成という年号が「平和が成る」という願望から命名されたと聞いた時に、「世界最終戦争論」を世に出した石原莞爾先生の書物がどうしても目についたからであった。

 もっとも石原先生のことを全く知らなかったわけではない。ただし先生に心酔するようになったのは、昭和の時代の終わり頃から平成の時代にかけてであった。今回は「世界最終戦争論」そのものよりも、私が学んで行く内に経験したことなどを書かせて頂こう。

記帳

 念願かない、先生の墓に参りました。先生の唱えた「世界最終戦争」を読破して、居ても立ってもおられない心境でこの地にやってきました。やがてくる「世界最終戦争」の時代に勝利して、国家・民族の繁栄に尽くします。

平成元年8月13日     瀬戸弘幸     37歳

 今から17年前の私の日記に書かれた、石原莞爾先生の墓参の記事の中にある事柄だ。この日記から紹介させていただきます。

 8月13日、日本列島は熱い夏の真っ只中にあった。盆休みを利用して、かねてから行かなければならないと思っていた山形県鶴岡に向った。東北自動車道の村田インターから、新しくできた山形に向う高速道路に乗り換えて鶴岡市に向った。

 深い緑に覆われた山々、ひときわ目につく高い山は国立公園にも指定され、登山家なら一度は必ず登っている月山である。周りの素晴らしい自然に見とれながら車を飛ばしていると、今度は見渡す限りの水田地帯に入った。

 庄内平野は一面が緑に覆われていた。稲の穂が一斉に出始めたばかりで、風に揺れその穂が波打つ姿は壮観そのものだ。私が目指すのは鶴岡市と酒田市の丁度中間に位置する西山町である。

 石原先生は日本の敗戦後、自分の生まれ故郷に帰り、この地を開墾されて西山牧場をつくった。今日、開墾や開拓などと言えば、何か夢や浪漫を感じさせる言葉だが、当時は大変な苦労を伴う事だった。

 私の母方に戦後都会から田舎に来られて開墾地に入られた人がおり、その経験談を直接聞いたことがあったが、私には信じられないようなことばかりだった。

 家を建てるのにも材料がまったくなく、先ず山間に穴を掘り何本かの杭を打ち、その上にトタンの屋根をかけて雪や風の寒さを凌いだというのだ。西山町も日本海側からの冷たい風にさらされる場所にあった。

 地元の人達に聞きながら目的地を探したが、尋ねる人すべてが「あっ〜あの偉い先生ですね」と言って教えてくれた。

 昼でも松林に覆われ薄暗い、そんな道を進んでいくと、そこの場所だけぽっかりと穴が開いたように光が差す場所があった。そこにこんもりと土が積まれて高くなっている場所があった。

 先生の墓は小高い山の上にあった。石原先生の墓という案内板がなければ、それが墓とは思わない。見過ごして通り過ぎてしまう、そんな質素なものだった。

 私はこの墓で驚くべきものを目にすることになった。

 それはまた明日の夜に書かせて頂きます。思わせぶりですみません。あまり長い文章になるよりは短い文章で進めて行きたいと思います。

※石原莞爾先生のファンの方は是非コメントください 

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Posted by the_radical_right at 19:02 │ mixiチェック