「反中国講座」��
先の第二次世界大戦において、アジアで最大の得をしたのか誰か?
これを考える事は意味のないことではない。なぜならば結果的に得をしたのか。或いは得をしようとして行動して来たかを知る事は、偶発的な衝突と言われた盧溝橋事件や満州事変、支那事変と呼ばれた戦争がどのような性格を持つものだったかが伺い知れるからだ。
あの戦争で一番得をしたのは共産主義者であった。アジア大陸の共産化、すなわち“監獄化”に成功した。ヨーロッパにおいてヒトラーに勝利したチャーチルは、間もなく東欧一帯が「鉄のカーテン」に閉ざされた実情を目の当たりにして「我々は戦う相手を間違えてしまった」と感嘆したという。
連合国側の中心であった米国においてさえも、「本当に勝利だったのか?」との声が挙がったほどであった。日独伊の枢軸を叩くのに性急で、共産主義者の恐るべき侵略性に、あまりにも鈍感であった。国際ユダヤ勢力は米ソ超大国による世界分割統治を望んだので、その思惑は果たせたという説もあるが、大半の一般の国民にとっては不満の残る結果であった。
ご存知のようにマルクスの唱えた共産主義とは全世界の共産主義革命であり、ロシアだけの一国の革命には飽き足らず、全世界の共産主義革命に激を飛ばした。1921年7月、コミンテルンの主導により、陳独秀や毛沢東らが中国共産党を設立した。
コミンテルンとは1919年3月にモスクワにおいて21ヶ国の代表が参加して設立。共産主義思想の普及、革命家の育成、ロシア革命の世界革命化などが目的であった。このコミンテルンの日本支部として1922年日本共産党が誕生している。中国共産党にしても日本共産党にしても発足時はソ連の世界革命の工作機関に過ぎなかった。
ソ連は支那と特に日本が権益を持つ満州に於いては明確な極東戦略を立てていた。日露戦争で日本に譲り渡した以上の権益を1920年代初頭には獲得していた。外蒙古を衛星国化し、カザフスタンから東部トルキスタンへと触手を伸ばし始めていた。
また、帝政ロシア時代からの北満の権益を継承。東支鉄道を動脈とし、ハルピンを拠点として全満州の赤化を狙っていた。満州は当時は最貧の社会で混乱し無秩序の状態だった。特に匪賊といわれる夜盗が出没する所でもあったのである。
このような社会状況こそ共産革命の良き土壌であり、彼ら共産主義は甘い囁きをもって民衆に浸透しようと工作していた。満州において支配権を持っていた軍閥の指導者・張学良は、ソ連を排除するために軍事行動にでるが、ソ連軍の反撃を受けて追いやられてしまう。
この張学良の父は張作霖であるが、彼は日露戦争でロシアのスパイとして活躍するが、日本軍に捕縛される。危うく処刑されるところであったが、張に見所を認めた陸軍参謀次長・兒玉源太郎に助命された。この時、張の助命を伝令したのが後に首相として張と大きく関わることとなる田中義一(当時は少佐)であった。
この張学良の敗退によってソ連軍の勢力は前にもまして増幅して行った。ソ満国境の警備は疎かとなり、日本軍はこれまで同盟関係にあった張学良軍の敗退と、それに伴う新たな困難に直面することになって行った。それは張学良軍が日本の意のままに動かなくなった事である。
北からは共産軍、東からは孫文の後を継いだ蒋介石軍が迫る中で、張学良軍は全く独自の動きを強めて行くが、これに日本が日露戦争の勝利で得た権益にも絡み始め、日本も最早のんびりと構えていられる状況にはなくなっていったのである。
満州事変に至る重大な要因というものは、日本が満州を支配する野望から起きたものではなかった。それは一つには共産主義勢力から日本の権益を守らんがために決意せざるを得ない苦汁の選択でもあった。
日本の軍部首脳はこの時、支那大陸への侵略の野望は全くなく、逆に満州での駐留がやがては必然的に日ソ戦争を誘発するものであり、それを覚悟していたほどであった。
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