「反中国歴史講座」 ��
蘆溝橋事件は中ソ共同の策謀?��
1937年(昭和12年)7月7日七夕の蘆溝橋事件は、日本側からの発砲とされてきたが、これは明らかに嘘である。当時日本側は戦争の拡大など望んではおらず、日本側から仕掛ける必要性は全くなかった。
にもかかわらず、この事件を我が国の教科書は「蘆溝橋での�狷�本側からの一発�瓩�ら戦闘は拡大の一途に向った」などと、日本側から仕掛けられたものであると記述してきた。
今日、最初の発砲は劉少奇・中国共産党北方局主任の差し金であったと云われている。この発砲事件はすぐに停戦交渉が行われた。これを見ても日本軍が戦線を拡大する考えがなかったことは明らかだ。
劉少奇は停戦交渉中に電信などで「即時抗戦」を強訴し、現地では精華大学の共産主義学生を主体とする抗日過激分子が激しく策動していたのは、あまりにも有名な話である。
中国共産党は1932年(昭和7年)早くも「北上抗日」を宣言、1934年(昭和9年)10月、その根拠地であった江西省瑞金を脱して、あの有名な「長征」を挙行、支那西北部の延安に向った。
【長征】フリー百科より
国民政府は、1930年代、「中華ソビエト解放区」と称する支配地域を各地に築いていた共産党に対し攻勢を強め、「囲剿(=悪者を囲み滅ぼすの意)」と称する包囲殲滅線を各地で展開した。当時共産党の最大勢力圏は江西省瑞金を中心にした山岳地帯根拠地であった。民族資本や外国資本の集まる大都市や半植民地化された沿岸部からは遠くはなれた地域であったため、中華ソビエト地区を発展させるには農業の発展が不可避であり、半農半兵という状態であった。 当時共産党正規軍は中国工農紅軍第一軍と呼ばれており、瑞金政府管理下の正規軍は約十万、民兵を含めても十五万に満たない兵力であったという。
この「長征」は国民政府軍の追討を避ける為だが、もう一つの目的は抗日戦争への拠点確保であった。北支、内蒙へ進出して満州の側背を脅威し、日本軍の対ソ防衛を妨げようとしたのであった。
注目すべきは、当時の中国共産党はモスクワを総司令部とするコミュンテルンの一機関に過ぎず、事実上ソ連の手先だったことである。この点は今後の満州事変、支那事変を見ていく上で重要なポイントとなってくる。
我々《極右》は中国侵略とは考えておらず、共産主義者との死闘であったと考えるからだ。
ブログランキング ←応援クリックよろしくお願いします!
