
「反中国講座」��
今回は満州の野を駈けた日本人について述べて見たい。
大正14年日本で発売されていた『日本少年』という雑誌に「馬賊の唄」という小説が連載されていた。支那大陸は当時の日本の若者にとっては夢の大陸でもあった。支那の広大な大陸に渡った主人公「山内日出男」少年が白馬に跨って悪を懲らしめ大陸を疾駆する熱血冒険小説である。
このような小説が大いに若者の心を捉えたのは、当時の国力膨張期における日本人一般のメンタリティーの顕現でもあった。馬賊の唄には有名な「海のかなたにゃ支那がある〜♪」一節がある。これを以ってして、当時の日本が支那大陸に攻め込むつもりだったと早とちりしないで欲しい。これはあくまでも冒険小説の中での話である。
しかし、このような小説に憧れ多くの日本の若者が満州の地に渡った。そして彼らの中には満州で群雄割拠していた馬賊の頭領にまで登りつめた人がいたのである。また、このように満州に渡った多くの日本人は“満州浪人”と呼ばれ、現地の人達に溶け込みリーダー的な存在となった。
もし現在、共産中国が言っているように、侵略者の手先として満州に渡っていたなら、彼らがそれだけの地位に就き尊敬を集めることなどなかったはずだ。数奇な運命を生きた彼らについて見ていくことにしよう。
では、そもそも馬賊とは何であったのか?ネットのフリー百科から取り出して見る。
馬賊(ばぞく)とは、騎馬の機動力を生かして荒しまわる賊。 清末から満州国期に中国東北部(満州周辺)で活動していた、いわゆる満州馬賊が有名。
馬賊というと「盗賊団」的なイメージが強いが、元々は自衛組織(土匪・匪賊)の中の遊撃隊的な組織であった。 というのも、当時の満州では清朝の衰退によって治安が悪化しており、盗賊がはびこっていた。 これに対抗するため民衆は自衛組織を作り、盗賊に対抗していたのである。 但し、満州内の混乱が進むにつれ、力を持った馬賊が本来の「自衛」を越えて盗賊的な行為も行なう場合があった。
馬賊の頭目にまでなった日本人の中でも伊達順之助、小日向白朗、薄益三の三名は特に有名である。伊達順之助は伝説で語られるほどの活躍を見せた。日本での出自はあの「独眼流」伊達政宗公の子孫というから物語としては最高である。馬賊の頭領となり後は関東軍に協力して敗戦の日に国民党政府工作員に捕まり銃殺されている。
小日向白朗は16歳で単身支那に渡り、陸軍密偵として蒙古潜入中に馬賊に捕われたが、才気と度胸で満州馬賊を束ねる大頭目にのし上がり、満州民衆の伝説的ヒーローになったという。小日向白朗は抗日運動に参加した馬賊に協力した。日本敗戦の日に逮捕されたが後釈放され北京で余生を送ったとされる。
薄益三も満蒙独立を掲げる馬賊や志士らを組織して、独立義勇軍を決起させるが、日本軍はこれを無視して彼は憲兵隊に捕まり国外退去となる。しかし日本で収監されるが、また満州に渡った。これら三名以外にも頭角を現わした人物はたくさんいるが、根本豪もその一人である。国民党軍に対抗して馬賊を組織して暴れまくった。
彼らの所属した馬賊とは統制の取れた戦闘集団で、一つの組織には少なくとも2000人以上がいたとされている。彼らは日本人でありながら中国名を名乗り、支那の土地に自らの骨を埋めようと決意した者達であった。彼らは満州の人達から「兄弟」と呼ばれていた。
このように馬賊に身を投じた日本人を日本軍の手先とする論がまかり通ってきたが、それは間違いである。彼らは軍部の手先などではなく、ただ夢と浪漫を求めて満州に渡ったのである。日本軍と蒋介石軍との戦争に巻き込まれ、ある者は皇軍に協力する道を選び、またある者は日本人でありながら自分の夢に投じたのである。
馬賊は日本の敗戦とそれに続く中華人民共和国の成立とともに終焉を遂げた。明治以来、青少年の血を湧かせた馬賊も、過去を舞台にした小説は別として、最早、青少年の血を沸かすことはない。しかし、我々は彼らが「侵略」的な意思を持ち合わせていなかった事実だけは確認しておきたい。
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