満州の潜在主権とは何か?

「反中国講座」��
満州の地方軍閥に協力して治安の維持を図っていた
満州及び満州国における日本軍の存在は、その後の日本軍が国民党軍(蒋介石)及び中国人民軍(毛沢東)との戦いに発展しただけに、それが「侵略」だったか「進出」だったかは大変重要な点となるでしょう。そこで、これまで日本軍が満州に進駐した経緯というものが「義和団事件」「日清戦争」「日露戦争」「シベリア出兵」とその都度の状況を学習してきました。
いずれの場合においても日本軍が侵略を意図して支那大陸に渡ったのではなく、「破壊分子の鎮圧」や「共産主義の南下」を食い止めるために進出してきたことがはっきりしています。それでは今回は満州とは歴史の中でどのように位置づければ良いのか、そのことを学習してみたいと思います。
後に詳しく触れるが、満州に展開した関東軍参謀部作戦部長の石原莞爾中佐は満州について次のように語っている。
「由来、満州の地は支那のものであるが、支那本部とは違う。昔は朝鮮人、満州人、蒙古人などが住んでいた。明治以後、日本人も多く入ったが、つい最近までは漢民族は南の小部分にしかいなかったので、いわば満州の地は諸民族共同の財産であった」
この主張に現在の中国共産党は反発するだろう。しかし、中国という国家は共産党が銃剣によって少数民族を支配して創り上げられた多民族国家であり、旧ソビエトが瓦解した時に中央アジアやバルト海沿岸諸国が独立したごとく、各民族が独立する可能性が極めて強い「幻想の帝国」なのである。
具体的に歴史を遡りながら、満州の主権が当時どこにあったのか、それを見ていくことにしたい。私はこの主権という言葉は満州には当たらないと考える。もし、どうしても主権という言葉を用いるとするなら、それは<潜在主権>と呼ぶべきではないだろうか。
満州とは支那大陸を長期に渡り支配した清国の故郷の地であり、漢人には元々縁の薄い土地であったことは確かだった。満蒙人(満州人・蒙古人)は漢人を寄せ付けず、漢民族が満州に移住することを拒否してきた。
しかし、18世紀に入り、清国が次第に弱体化し且つロシアが進出すると、これに危機感を抱き有史以来の異例の措置として封禁令を緩和して漢民族やその他の民族の移住を認め始めた。しかし、治安が悪く移住が本格化してきたのは、日本がロシアを打ち負かして追い払った後であった。
明治45年2月に清国は滅亡するが、それまでの主権は清国にあったことは言うまでもない。しかし、清国が滅亡した後に一体誰が満州を事実上支配していたかと言うと判然としない。大正から昭和初頭まで支那大陸においては各地方軍閥が割拠して勢力を誇示していた。
つまり明確な支配者など存在せずに無政府状態が続いていたのである。このような無政府状態の中で漢民族が満州に雪崩れ込んだ。その数は3000万人をゆうに超えたという。孫文が日本の支援者に約束した「満州は日本に一任する」との案は有名無実と化したのである。
ところで満州における最大の軍閥は張作霖であった。張作霖は日露戦争でロシア側に協力して日本軍に捕まったが、当時、作戦課長だった田中義一(後の首相)に助けられた。張作霖は日本側に寝返って、今度は日本軍に協力して力を伸ばし大勢力を築いた。当時、張作霖の軍隊は22万を越え、1万人の日本軍を大幅に上回っていたのである。
装備の上でも張作霖軍閥の方が上であった。日本軍は満州を支配していたのではなく、張作霖に協力しながら治安の維持や居留移民の保護を行なっていた。満州事変が起きる前の状況とはそのようなものであり、日本軍が圧倒的な兵力を展開して凌駕していた如く語るのはお門違いである。
ブログ・ランキング ←応援クリック頼みます!
Posted by the_radical_right at 21:11│
mixiチェック
│
反中国講座
>瀬戸弘幸さん
お返事有難うございます。ところで清王朝を中華民国が引き継いでないとされる根拠は何でしょうか?私の発想としては、同一国家内の争いは基本的にその国の内政問題であって、清に打ち勝った中華民国がその財産を受け継ぐのは当然と考えております。
蔵信芳樹 さんへ
>今はロシアが支配する沿海州及びシベリアと満州の違いは何か?
そうですね。この点については勉強してみたいと思います。
支那 朝子さんへ
>日本軍が駐留したことにより(満州国成立以降も)、治安、経済が良くなり、政治、民心が安定した。そのため多くの支那人が入り込み、人口が急増したとのことです。
このことを再度検証する必要があると思います。
煬帝さんへ
>状況判断をしっかりとし、一時の感情に身を委ねるのを慎み、身の丈に合った行動を選択する必要があります。
思わず納得です。その通りとしか言いようが無いですね。
ゲッピーさんへ
満州の主権を中華民国が引き継いだとは思いません。ましてや共産党(毛沢東)は強奪したのであって、正当なる主権の継承者とは認められない、というのが私の「反中国講座」の主張でもあります。
あきらさんへ
満州国建国の問題を単なる侵略とだけ片付けられてしまった、その一つの原因として日米開戦、軍部の独走などがありますが、私も同じ意見です。
怒る市民さんへ
いつもながらの分析恐れ入ります。地政学上から見れば支那大陸の中にあるわけで、そこに日本だけの主権を主張するには無理があろうかと思います。
それ故に<潜在主権>としましたが、今後皆さんと議論してみたいと考えております。
国際連盟の所謂「リットン報告」には強制力がなく、また連盟総会での決議も強制出来ないものでしたから、松岡洋右が脱退を宣言したのは大失策でした。彼は事前に西園寺公望から「脱退だけはしないように」との助言を受けていたので帰国の途でしょげ返っていたそうです。その彼を国民は英雄扱いにした。これが松岡が後年外相になって日本の外交を引っ掻き回す原因になっています。
日本人の悪い癖がここに出てますね。
状況判断をしっかりとし、一時の感情に身を委ねるのを慎み、身の丈に合った行動を選択する必要があります。
各位
コメントを有り難うございました。
我が国の満州統治について、米英など列強の国々を参入させて、共同での投資・統治にすべきだったとの見解がありますね。ソ連共産主義の脅威に備えて関東軍のみで防共戦線を構築するのではなく、米国や英国も招き入れ、「ソ連VS世界」という構図を作り出すべきだったと。
現在の対中関係においても然りと言えましょう。
(万里の)長城の外側は、支那人(漢人)の支配地ではなかったようです。
黄文雄氏によれば、日本軍が駐留したことにより(満州国成立以降も)、治安、経済が良くなり、政治、民心が安定した。そのため多くの支那人が入り込み、人口が急増したとのことです。
そろそろ、東京裁判史観、左翼史観の呪縛から解き放たれる時でしょう。
瀬戸さん、お弟子さんこんにちは。
策士、石原莞爾中佐の言はまさに当を得たものです。満州とは元来、清王朝を支配した女真人(満州人)の故郷。一旦緩急あらば王室、並びに満州人の避難場所として清の国策により空白地とされた所。かかる地は名目上は清の版図でありましたが、国力の衰退により形骸化して後は、移り住んだ五族共有の地と判断し得るのではないでしょうか。その意味に於いて、日本人は五族を構成する一民族としての応分の主権が存することに、瀬戸さんをして“潜在主権”という表現を用いたのではないでしょうか。溥儀を皇帝に戴く独立国の呈は成していましたが、事実上、日本の傀儡国家。というのも日本の国益が大いに絡んだ地でもあるし、独力で国を維持してゆけず、日本以外で国政を担えるだけの民度を有す民族も存在しなかったからに他なりません。21世紀の価値観で正否は断ずることはできないでしょう。
>漢人に満州の主権があるのならば、インド人にイギリスの主権があるという ことも言えるはずです。インド人はイギリスから独立しました。漢人は満州人 に取って代わりました。すなわち漢人は清の帝国主義を引き継いだということ です。
領土と植民地を混ぜて論じるのは不適切ではないでしょうか。少なくともイギリス本土とインドは違う法が適用されていたのですから。
今はロシアが支配する沿海州及びシベリアと満州の違いは何か?
帝国主義とは何か?
清は帝国主義であるか?
漢人に満州の主権があるのならば、インド人にイギリスの主権があるということも言えるはずです。インド人はイギリスから独立しました。漢人は満州人に取って代わりました。すなわち漢人は清の帝国主義を引き継いだということです。
満州は日露の戦いで我が皇軍将兵の尊い犠牲の上に勝ち取った大地だった。支那の事変も拡大させず満州だけを安全な状態に…それだけに目を向けていたらと思う。返す返すも残念です。昭和軍閥は満州の広野に眠る御霊になんと言い訳するつもりだったのか…二度とあんな間違いはしでかしてはならんと思います。戦はやるからには勝たねばならんのです。精神力に頼りすぎましたかな。
民族が雑多に入り混じる土地というのは主権が潜在化するという主張には賛同いたしかねます。世界的に見ても、民族が雑多であろうとも国家主権は成立しています。ただし雑多な民族の土地に紛争が起きる場合というのは、多くは主権を持つ国家の統治能力の不足が原因になっています。その点中華民国に瑕疵があったというのは確かだと思います。
清代には確実に満州の主権は清朝にありました。ここで問題になるのは中華民国が清朝の後継国家であるか否かという一点に尽きると私は考えます。この点一般的にはそう認められていますし、私もおそらくそうであろうと考えていますが、管理人さんの方には異論がおありでないかと推測しています。