2006年02月14日

共産主義「耐性」の限界

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共産主義体制「耐性」の限界

 共産主義を人類にとって最も厄介な病原菌とするなら、自由という薬が如何なる効果をもたらし、それに共産主義病原菌の「耐性」がいつまで持つのかが注目されるところだ。共産主義体制を維持する上で必須の条件とも言えるものが、情報の統制と言論の監視である。

 この二つがコントロールされている限りにおいて、この共産主義という病原菌が消滅することはない。どのような薬にもそれなりの抗体を持って生存できる。しかし、この「耐性」が失われた時に脆くも崩れ去ってしまう。

 この私達が生きている社会は、日々平穏に見えても常に危い均衡の上に成り立っている事を、嫌でも教えてくれたのが、共産主義国家群の瓦解であった。自由と平等な社会とは人間が目指す理想社会であろう。しかし、不思議にも不自由で不平等な社会が、人間の理想郷として存在していたのだから笑えない冗談でもあった。

 あれほどの「収容所・国家」が自壊する様を見ることが出来ようとは、正直言って予想もし得ないことだった。どのような強大な権力であっても、それは権(かり)の力である限り、限界もあるし失う時もやってくるのだ。

 前書きが余りにも長くなり過ぎました。昨日の『反中国講座�ァ戮涼罎如�現在中国においては「義和団事件」の歴史認識について、共産党指導部と言論人の間で深刻な対立が起きていると書きました。この問題で週刊誌としては高い人気を集めていた「氷点週刊」が共産党によって弾圧され廃刊に追い込まれました。

 排外運動から北京の占領につながった1900年の義和団事件を現在の共産党政府は学校の教科書には中国人民の叛乱として肯定的に記述させています。これに対して「氷点週刊」は広州大学のユアン教授の批判的な論文を掲載し紹介した。ユアン教授は現在中国の中学校で使われている歴史教科書には「思想的な偏りや事実誤認があり、生徒に偏見や敵意を植え付けかねない」と批判していた。

 これに対して共産党は「報道規制を著しく逸脱し、国民の愛国心を大きく傷つけ社会的にも悪影響を与えた」と批難した。ユアン教授は「義和団事件」を中国の現代化に重要な役割を果たしているという、これまでの定説を「破壊分子」に過ぎなかったとしてこの認識を改めるように主張した。

 中国には侵略された原因は全て西欧列強の帝国主義や日本軍国主義にあり、侵略された中国の側には全く責任はないとの立場を崩してはいない。しかし、このユアン教授の論文は「中国が侵略され脅かされたのは事実だが、それを口実に自国の欠点や行動を正当化することは出来ない」と書いている。

 このような「自虐史観」は共産党指導部にとっては受け入れ難いものであり、認めるわけにはいかなかった。外敵から中国を救ったというその理論的根拠の正当性に疑問符がつきかねない要素を含むからである。

 中国人民は何も悪くはなかった、一方的に侵略された被害者である。中国共産党は侵略者に立ち向かった正義の党である。これが独裁政治を正当化する唯一の根拠であるからこそ、彼らはそれ以外の「歴史観」を葬り去ったのである。

 しかし、ここに来て経済の急速な成長とインターネットの普及は、共産主義体制を揺さぶり始めた。この病原菌がどこまで持ちこたえることができるのか?中国共産党はネットの統制強化にも乗り出し、「違法」と認定した76サイトを閉鎖に追い込んだ。
 自由への「耐性」に対処できるのか?全世界が注目している。

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2006年02月13日

「大日本順民」と日本軍を歓迎した北京市民

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「反中国講座」��

義和団事件で日本軍を歓迎した北京市民

 共産中国が日本の「侵略行為」という最大の根拠というか、分かり易い説明が日本軍が支那大陸で中国軍と戦ったという事実だろう。中国にしてみれば戦場が支那大陸であったわけだから、日本が侵略してきたという説明は一見分かり易い。よって日本でもそれを受け入れてしまう人もいる。

 先ずこの日本軍の支那大陸進駐が何故起きたのか?
 そのことについて述べておきます。日本軍が最初に支那大陸に進駐したのは明治33年の「義和団事件」が発端となりました。義和団事件とはおよそ次のようなものでした。

「中国,清朝末期におこった外国排斥運動。北清事変ともいう。列強勢力やキリスト教の進出に反感をもった民衆は,宗教結社の義和団に入って鉄道や教会をおそった。運動は山東(シャントン)省からおこって北京(ペキン)にもおよび,1900年には外国公使館を包囲した。清朝は義和団を支持して,各国に宣戦を布告。日本など8か国は連合軍を送って北京を占領し,1901年清朝を屈伏させて,巨額の賠償金や外国軍隊の駐屯権をとり,中国の半植民地化をすすめた。」

※この義和団事件の騒擾に乗じてロシアは満州を占領した。

 居留民保護と治安回復を目的として英・仏・米・露・独・伊・墺と日本の8カ国からなる連合軍が北京に出兵しました。これを侵略の始まりと言うなら、日本だけでないことは明らかで、この8カ国全てを侵略国として批判しなくては筋が通りません。

 義和団は鎮圧されましたが、この時の日本軍は上は司令官から下は一兵卒に至るまで秩序が維持され、他国のような略奪騒動は全くなかった。ひたすら治安の回復に努めたので、北京市民は「大日本順民」と書かれた紙や布切れで歓迎した。「大日本順民」とは「大日本に順(したがう)市民」という意味である。

 戦前の日本の正式名称は「大日本帝国」であり、「大日本順民」となったのである。現在、共産中国が組織する官製反日デモで掲げられるのは「小日本」という垂れ幕だが、時の流れとはこうも変わるものなのだと考えさせられる。

 また、この義和団事件鎮圧後、清国政府は日本軍に進駐軍の最高司令官に就任することを要請している。もし漢人が日本軍を歓迎しなかったら、これらのことは説明できないでしょう。現在、この義和団事件を巡って中国内部で歴史論争が起きているとも聞きます。

 ところでフジテレビに出演した安倍晋三官房長官は中国による小泉首相の靖国参拝批判について次のように述べました。

「アメリカには信仰の自由がある。アーリントン墓地には義和団事件で亡くなった海兵隊兵士も眠っている。それは中国にとっては不愉快かもしれない。しかし、アメリカは自国のために戦った兵士を手厚く遇している。信仰の自由、良心の自由を大切にしている」

 この発言は「諸君!」2月号の大特集『もし中国にああ言われたらこう言い返せ』の中の、新田均・皇學館大学教授の論文「(中国に)『A級戦犯を祀る靖国に首相・閣僚が参拝するのはケシカラン』と言われたら」を意識しての発言だった。

「中国民主活動家の相林氏によれば『胡錦濤や江沢民も訪米したら花輪を持ってアーリントンに行く』(本誌平成17年7月号)といいます。これが本当だとすれば、この行為は中国人民の感情を傷つけなかったのでしょうか。なぜなら、アーリントンの無名戦士の墓には朝鮮戦争の戦没者も眠っているからです。朝鮮戦争は、中国側の解釈では、アメリカの侵略に対する反撃だったはずです。その侵略の手先が眠る墓に何故中国の指導者は詣でることができたのでしょうか。何故、問題にならなかったのでしょうか。寡聞にして私は、アメリカが朝鮮戦争を自国の侵略と認めて謝罪したという話を知りません。」

 共産中国最高指導者自らが義和団事件で死亡した米軍兵士が眠るアーリントン墓地に献花するくらいだから、義和団事件を契機として日本軍が駐留した件は、間違っても「侵略行為」などではないだろう。

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2006年02月10日

「反中国講座」�ァ)�州とアジア主義

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満州とアジア主義・孫文は満州を日本に一任した

 日本にとって満州とは何であったのか?
 満州建国に至ったアジア主義とは、どのような思想であったのか?アジア主義は日本を戦争に導いた思想として、戦後社会においては、侵略戦争の代名詞のように言われてきた。

 しかし、侵略戦争とは直接結びつくどころか、その侵略戦争そのものが存在しなかったのである。アジア主義とは日本と漢民族による満州統治の約束でもあった。満州とは清王朝の故郷の地であり、それ故に漢民族にとっては「夷狄」と呼び、禍をもたらす地であった。

 だからこそ漢人は彼らを北方に追いやって駆遂し、城壁を築いた。これが万里の長城であるが、これを見ても満州が漢民族固有の領土でないことは明らかだ。今日、支那大陸を支配する共産主義者もそれは十分承知の上で、古来より中国領土と強弁しているに過ぎない。

 漢民族はこの満州を故郷とする清王朝に長年に渡って支配されていた。この清王朝はアヘン戦争によって国力を疲弊させ、日清戦争の敗北、義和団事件をきっかけに欧米列強に国土を侵蝕され、国家は崩壊寸前であった。

 この時、孫文は「中国を興す会」を組織して、清王朝の打倒に立ち上がったが失敗して日本に亡命。孫文を日本で支援したのが、右翼の巨頭と言われた頭山満であった。

 孫文は日本の右翼勢力に支援され、再び挙兵したが失敗して、日露戦争の時に再び日本に亡命した。孫文は日本の勝利を「世界史的な大転換の時代が来た」と呼びかけ、日本にいた留学生を結集して「革命同志会」を結成した。

 これを全面支援したのが右翼の志士、内田良平である。当時、孫文は「中国にとって満州は外国であり、革命の成功後は満州問題は日本に一任する」と公言していた。

 「革命同志会」の目的は「倒満興漢」であり、満州に対しては領土的な野心は全くなかった。孫文は満州に戻った清王朝がロシアと手を結び、再び漢民族の敵になるのを恐れたのであった。

 現在、共産主義者が支配する中国において、孫文が果した歴史的な役割をどう教えているのか?是非とも知りたいものである。

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2006年02月09日

「反中国講座」満州は近代化への道だった!

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満州は壮大な近代化の実験場だった。

不毛の大地から奇跡の発展へ

 戦後生れの日本人は戦前日本軍が支那大陸において、中国の支配を目論んで戦争を行なったと理解している人が大半である。確かに日本軍は広大な支那大陸において戦ったが、それは支那大陸全土を征服して植民地にしようなどと考えていたわけではない。

 そのことをきちんと押さえておかないと、現在共産中国が我が国にし掛けてきている「歴史認識論争」に対抗できない。この「反中国講座」はそのために皆様方と一緒に学習するために始めました。

 先ずこれまで満州における権益は日露戦争での勝利によって、ロシアが持つ権益を平和裏の内に受け継ぎ、清国との講話条約に基づいて進出したのであって侵略ではなかったことは既に述べた通りです。

 また、ロシアに突然起きた共産主義革命の伝播を恐れた英国やフランスが米国と日本にシベリアへの出兵を要請。日本には出兵反対の議論もあったが国際社会の要請という点を配慮して支那大陸に兵を出し、南下を狙う共産軍を阻止するために国境沿いに展開したことまでは学習しました。

 本日は我々が中国と呼んでいる支那大陸は漢民族だけの土地ではなく、そこには様々な民族が暮らす多民族国家であり、共産主義イデオロギーで武装する漢人によって他の民族は支配されている事実を過去の歴史に遡って考えて見たい。

 満州はもともと漢民族の版図ではなく、支那人の領土でもない。それは満州が「満州」たる所以であり、その証拠に「万里の長城」があって、漢人は「関外」と称して「中原」と区別していた。

 日露戦争前、清国は腐敗して弱体化、ロシアの南侵に抗し切れず、事実上の満州占領を許していた。日露戦争において日本が勝利して満州からロシア軍は撃退され解放されたのである。

 満州は日本に割譲されることはなかったが、南満州鉄道を主軸とする諸々の権益を獲得し、やがては居住往来の自由や商租権なども得た。勿論この権益を守る兵隊の駐留もあった。

 日本は満州に鉄道を敷設して、この不毛の地を新天地として開拓、目覚ましい発展の基礎を築いた。この満州における日本のイニシアチブは国際社会において批判されることなく、了解を受けての行為であったことは疑いない。

 日本は満州に当時としては世界最先端の近代都市を建設したが、それは莫大な投資でもあった。満鉄(南満州鉄道)の特急アジア号は平均時速75キロで、勿論当時では世界最速だった。戦火が激しくなって諦めたが、更に速い弾丸列車の建設も構想にあった。これは後の日本で新幹線技術として花開く。

 科学技術と経済投資は並外れており、植民地にして資源を収奪するどころか、その全く逆に理想の国を創ろうとしていたのである。当時、日本は移民を奨励しており180万人からの移民が米国、南米に向け出発していたが、米国などにおいて日本からの移民を規制する動きが見られ、日本は満州に住む人たちとの融和の中で新しい道を模索していた。

 それがアジア主義(王道楽土・五族協和)というものであった。このアジア主義は戦争に導いた思想として否定的な評価しかなされていないが、欧米とは異なる近代化に向けた思想であった。しかし、今日持ち出されている「東アジア共同体構想」に見られるアジア主義とは根本的に違う。

 昨今、共産中国が打ち出してきたアジア主義はあくまでも自分達が主人公のもので、共に栄えるかつての思想とは似ても似つかぬものである。このアジア主義思想については後日検証したい。

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Posted by the_radical_right at 18:06 │ mixiチェック

2006年02月04日

「反中国講座」�� 共産主義との戦い

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 シベリア出兵と共産主義の南下阻止




 前回、日本は日露戦争によって満州に帝政ロシアが持っていた権益の譲渡を受けたことを記した。支那大陸に兵を送ったわけでもなく、戦争をして奪い取ったものではなかった。清国との講和によって権益を得たのである。

 日露戦争の敗北が一つの契機となって、ロシアにおいてはレーニンが率いる共産主義革命が起きた。この革命が世界中に伝播することを恐れた英国やフランスは、日本と米国に出兵することを強く要請した。この要請に応じて日本はシベリアに出兵。日本がソビエト共産軍と対峙するのに重要な拠点は満州であった。

 日本は日清講和条約で得た満州における権益を守備する兵隊を駐留させていた。清国は各地の叛乱を鎮めることが出来ずに崩壊状態に。当時、満州は名目的には袁世凱政府の支配下とされたが、実効的な支配が及んでいるとは言えなかった。

 日本は国際社会の要請によって共産主義と戦うためにシベリアに出兵。その後撤兵したが、満州に持つ権益を保持し、共産主義の南下を食い止めるため、支那大陸を分割支配していた地方軍閥の協力を得ながら共産主義と対峙して満蒙国境沿いに展開していた。

 国民政府の蒋介石は共産党と戦闘中だったため、日本軍との戦いを避けていたし、張学良も抵抗らしい抵抗はせず、地方軍閥もほとんどが日本軍と手を結んで地方を政権固めする途を選んでいたのである。

 このように見てくると、現在、中国側が日本は当初から支那大陸の支配を目指して大軍を送り込んできたとする説は、あまりにも歴史を歪曲したものであることが分かる。日本共産党は靖国神社が戦争を賛美しているとして以下のような記事を掲載している。

「靖国神社は、日本の戦争を『自存自衛』の戦争、白人(欧米)の支配から『アジアを解放』するための『正しい戦争だった』としているのです。しかし、この戦争は、最初から、他国の領土を奪うことが目的でした。日本は、1931年に中国東北地方に攻め込んで以来、戦争を中国全土に広げ、太平洋戦争に拡大する前年には、下の地図のとおり、中国から東南アジア、インド、オーストラリア、ニュージーランドまでの広大な地域を『日本の生存圏』などとして、支配を広げることを決めていました」(良識派氏のコメント投稿より引用)

 ↑上記の中にある「1931年に中国東北地方に攻め込んで以来、戦争を中国本土に拡大…」の記事は明らかに説明不足で意図的ですらある。日本軍は他国の領土を奪うことを目的で支那大陸に行った訳ではないことは、これまでの検証で明らかである。

我々《極右》は、先の大戦の大義を

「自存自衛」の戦争!

「アジア解放・民族独立」の戦争!

「国際共産主義との対決」の戦争!

と三つ挙げる。よって支那大陸における戦争とは侵略戦争ではない。

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Posted by the_radical_right at 19:57 │ mixiチェック