『反中国講座』��
「進出」であり「侵略」ではなかった!
朝日新聞社が旧文部省時代の昭和57年6月に、教科書の検定で「侵略」を「進出」と書き換えさせたと報道した誤報事件を契機に、共産中国、韓国、北朝鮮らが騒ぎ出して満州への進出が「侵略である」との考えが半ば日本では定着してしまった。
日本軍が支那本土にいたことは間違いないが、それは植民地支配を目指してのものだったのか、或いは進出と表現すべき軍隊の派遣であったのか?このことをしっかりと再検証しなくてはならない。後に分かった事であるが、この「侵略」から「進出」への書き換えは全くの誤報であった。にも拘らずあれだけ中国や韓国が強烈に反発した背景には、逆にそう書き換えられていたとしても仕方がない要素がたくさんあったと見るべきではなかったかと思う。
つまり、極東軍事裁判によって日本は支那大陸に植民地を求めて軍隊を送ったと断罪されたが、それは戦勝国の一方的主張であり、また違った歴史の真実があったのではないのか?我々はまずそのことから歴史を見つめ直す必要がある。
例えば、現在、日本の自衛隊はイラクにおいて人道復興支援を行なっている。現地においては一部の過激派はこれを日本の侵略と捉えるかも知れないが、現在のイラク政府はそのような立場はとっていない。しかし、また旧サダム政権が万が一にも復活したら、これは日本軍の侵略とされてしまうだろう。
つまり、時の政権の移り変わりによって、その行為は180度違ってくることも事実なのである。このような視点から見るなら満州に60万人もの軍隊がいたとしても、それが即侵略的行為であったとは言えないだろう。
明治時代に遡る―、支那大陸は満州族が支配して清国と名乗っていた。清国は朝鮮を属国と考え、帝政ロシアは朝鮮に対する野望を抱いていた。日本は自国の安全のために朝鮮の中立性と自立を望んでいた。しかし、朝鮮の李王朝はすでに五百年も続いており、官僚腐敗と国土の荒廃、さらに清国とロシアの脅威によって国家が崩壊寸前で、自らの力で運命を切り開く能力はなかった。
日清・日露戦争とはそのような状況の中で起きたものであり、日本は多大な犠牲を払ってこの戦いに勝利したのである。日露戦争の勝利で得た最大のものは、当時ロシアが清国・満州に持っていた様々な権利であった。これを日本は清国との協議の中で譲渡を受けたものである。
満州に関する日清条約の要約(1905年12月22日)(明治38年)
第1条 清国政府は露國が日露講和条約第5条及び第6条により日本国に対してなしたる一切の譲渡を承諾する。
第2条 日本国政府は清露両国間に締結された租借地並びに鉄道施設に関する原条約に照らし、努めて履行すべきことを承諾する。将来何ら案件の生じたる場合には随時清国政府と協議の上これを定むべし。
このように見てくれば、確かに日本は満州に様々な権利を有することになったが、これは日本が直接支那大陸に戦争を仕掛けて奪い取ったものでないことは明らかだろう。
明日はシベリア出兵について触れる予定である。なぜ、日本が60万人もの大軍を露満国境に貼り付けていたのか?それも他国への侵略とは全く関係のない、国際連盟からの要請によるものだった。
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