2005年10月03日

「対国際テロ」という新たな戦争

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 冒頭からバリ島における爆弾テロの犠牲となった方々のご冥福を祈りたい

 地元警察や各報道機関は今回の事件をJI(ジェマ・イスラミア)の犯行であると断じているが、こうした蛮行をキリストVSイスラムという視点に立ち、「他人様の戦争に巻き込まれた」という考えでいる限り、同様の被害に遭う事態は続発するだろう。
 そもそもバリ島では以前(しかも、つい最近とも言える)にも大規模な爆弾テロ事件が起きており、ましてイスラム過激派組織から日本を標的にしたテロが予告される中で、いかに観光地と言えどもそこに思いが至らなかった政府や旅行会社の落ち度は指弾されて然るべきだ。

 文化面から論じれば、この際、日本人はどの地域に限らず海外への旅行を全面自粛することを提言したい。
 高度成長からバブル全盛期を経て、海外旅行は日本人にとって一つのステイタスとなった感があるが、欧州であれアジアであれ、日本人は海外へ行ってもその国の文化を何一つ肌で体感することもなく、ただ観光地における記念撮影とブランド品のお土産を買い漁ることに血道をあげて帰国したというのが実際のところではないだろうか。
 次に国内に目を向けると、「標的」として名指しされたものの、いまだに我が国ではイスラム過激派のテロは起きていないが、やはりイスラム圏の人々にとって有色人種として世界史上で唯一、米英などの欧米列強に立ち向かい、果敢に戦った日本人は今以って尊敬の念を抱かれているのだろう。
 何よりも「特攻攻撃」という形で、彼らイスラム戦士に「自爆テロ」という戦法を教え示した先駆者は日本人に他ならないのだから。
「日本に学んだんだ―」 「日本人から教えられたんだ―」
 イスラム過激派の戦士は口々にこう述べる。
 イラクでも復興支援のために自衛隊が活動を展開させており、車輌付近で爆発が起きるなど、散発的に、意思表示とも思える�犢況皚瓩呂△辰燭發里糧鏗欧魯璽蹐任△襦�

 しかし、安堵もしていられない。実際に、過去にはアルカイダのメンバーが日本でのテロを計画していたことも露見した。
 前述のように米国との戦いに敗れ、米国の同盟国として追従する我が国は、ここで米国に学ばなければならない。戦後、多大に欧米文化を受け入れた我が国だが、「国を守る」というアメリカン・スピリットだけは取り入れることが出来なかった。
 かの9・11事件後、米国では怪しいと思しきイスラム出身者の即拘束を可能とし、のべ5千人にのぼるイスラム系国民が拘束されたわけだが、自由と民主主義を標榜しつつ、それらを守るためには如何なる強硬措置も辞さないという姿勢のあらわれである。
 他方、イスラム圏をはじめ有色人種の間には、日本人に対する尊敬の念が確かにあるという事実に、敗れたとはいえ先人達が戦った意義、そして特攻という決して有効とは言えぬ戦法で散った尊い生命の犠牲が、日本民族の存立という形で今なお生き続けていると思わずにはいられない。

 国際テロの危険が高まる中、空港や鉄道など交通機関では厳重な警戒体制が敷かれ、爆弾テロ対策の理由で駅構内からはゴミ箱が消えた。こうした些細な事でもいささか不便を感じるが、安全のためには止むを得ない。
 外国では空港や主要箇所でのセキュリティ・チェックは厳重で、イスラエルに滞在した知人の話では喫茶店に入る際も逐一、兵士のセキュリティ・チェックを受けなければならないのだ。当然、機関銃を持った兵士が所々にいるのも向うではごく日常的な光景である。
 何も外国が異常なのではない。とかく日本人がこうした不便さや緊張感に対する免疫が無さ過ぎるのである。今後、我々はさらに不便さと緊張感を強いられることになるだろう。
 そうでなければ悲劇は繰り返されるばかりか、尊い生命の犠牲も�狎犬�ては�瓩海覆ぁ�

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2005年08月02日

イスラム原理主義台頭の背景を探る

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 イスラム原理主義の過激テロ事件は今回のエジプトに限らず、中東や、いやイスラム圏と称される全地域において活発化している。このイスラム原理主義を更に詳しく分析してみよう。
 
 現在、イスラム原理主義を掲げる国家はイラン、スーダンなどでイスラム圏においても極めて小数である。しかし、イスラム原理主義勢力が一定の力を持つ国家はヨルダン、パレスチナ自治区、トルコ、旧アフガンなど、かなりの数にのぼる。
 
 また、国内においては体制側と武力闘争を繰り広げているエジプトやアルジェリアなどではかなりの支持者を持つと言われている。なぜイスラム原理主義者が民衆の支持を受けているのか、実はその解明が最も重要な点であろう。
 現在地球の人口は爆発的に増えており、3ヶ月で約1千万が増加している。これらの人口増加地域は、そのほとんどが開発途上国の中東アフリカなどであり、この人口増加問題と原理主義やテロ事件は因果関係にあると考えられる。
 
 3ヶ月に1千万人と言えば、ちょうど日本の首都・東京が3ヶ月に一つづつ誕生するということであり、これは驚くべきことだろう。1千万人の人間が生活する都市空間というものは永い年月を経て創り出されるものであり、そう簡単にできるものではない。
 しかし、現実に世界は統計上はそのような数字となっており、爆発的に増え続ける人口は都市へ集中する。しかし、そこにそれだけの人々を養うだけの仕事も無ければ、快適な生活圏もない。
 
 そのような都市に生まれた若者は一体、何に希望を見出すのであろうか。
 スラムと化した街を支配するのは貧しさであり、その貧しさに打ちひしがれた荒んだ若者らの心の中に、自然に入り込んでしまうのがイスラム原理主義の理論である。
 
 イスラム原理主義者は、現代の貧しさは現体制の権力者が「腐敗した背教者」によってもたらされたとし、この腐敗社会からの決別と理想社会を目指しての聖戦(ジハード)に立ち上がることを教える。
 腐敗した背教者と戦い、理想社会としてのイスラム共同体を実現するためなら、命を投げ出すことも厭わない。
 
 そうした若者には殉教者として最高の名誉が与えられる。
 
 何故、自分達が貧しいかと言えば、それは西欧列強諸国やキリスト教文明社会が自分達を搾取するからだと教えられる。現在の社会はキリスト教文明による侵略を受け、この侵略からイスラム圏を守らねばならないという宗教的使命感を強く持っている。
 
  
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2005年07月26日

「平和な時代になぜ…」は世界とのズレを露呈

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【第2部】
 
 2番目に気になったのは「平和な時代になぜ…」という新聞の見出しであった。添乗員として死亡した娘さんの母上が「平和な時代になぜこんなことが…」と絶句して思わず涙した、との書き出しで始まる報道記事であったが、このタイトルこそが世界の常識と日本の非常識を現わすものではないか。
 娘さんを亡くされた親族には本当に気の毒ではあるが、現代は決して平和な時代などではない。日本のマスメディアが勝手に現代をそのように創り上げてしまった。
 冷戦が崩壊した時、マスコミは挙ってこれで人類が永年待ち望んできた恒久平和な時代がやって来たなどと散々書きたてた。
 しかし、我々は冷静に国際情勢を分析、このようなマスコミの論調を厳しく批判し、冷戦の崩壊は熱戦(ホット・オブ・ザ・ウォー)の時代の始まりであると強く主張した。
 これまで米ソの力によって押さえつけられたり、旧ソ連の中で抑圧されてきた真のナショナリズムが台頭する時代であり、一歩間違えば世界各地において民族紛争という名の戦争が勃発すると予想した。旧ユーゴ内戦や旧ソ連邦内の民族紛争によって、それはその後証明されることに。
 更に“国境なき時代”に突入し、各民族が混在するようになった今日、各民族間の紛争は従来の国と国の対決といったものから、一国の中において行われるものとなる。特に多民族国家の場合、その可能性は常に内在されており、何時噴出するか分からない恐怖に怯えながら暮らすことになる。
 確かに、ここ半世紀の日本は平和であった。しかし、これとて日本が主体的に創り出した平和では決してない。たまたま平和な時代が半世紀間も続いたというだけであって、これは世界の状況から見れば奇跡に等しいことであった。
 日本人は平和とか安全とかいったものは、願ってさえいれば叶えられると勝手に誤解しているようだ。平和、平和と空念仏のように唱えてさえいれば、平和な時代が続くなどと思っているのは本当におめでたい話だ。
 日本は平和であっても、一歩外に出てしまえば、そこは平和とは程遠い世界であることをもっと認識しなければならない。そのことを常に啓蒙するのが新聞社の使命であるべきなのに「平和な時代になぜ…」などというタイトルを掲げるこの不勉強さと言うか、世界観のなさには驚かされる。
 マスコミがこの種の事件の時に決まって掲げる暴力反対、テロ根絶のスローガンだが、それは何の解決にもならないということを肝に銘じるべきだ。死を覚悟し、それを恐れない人間を前にした時、言葉など何の意味も持たない。
 エジプトでの観光客襲撃事件に限らず、このようなテロ事件を考える上で重要なのは、その戦慄さや残酷さでは決してない筈だ。テロ事件を引き起こすグループの思想的背景や政治的な意味、それらを分析することによって、防止策を考えるべきであろう。
 この観光客襲撃の場合とは異なるが、日本人そのものが標的とされるテロ事件が発展途上国で発生することがある。日本側は現地の開発に役立つことを願っての援助をしているが、相手側は必ずしもそうは受け取らない。テロ事件というのは、起きてしまってからではもう手遅れなのである。だからこそ起きる前にその可能性を探り分析を進めなければいけない。
 この様な事件が起きる都度、考えさせられることだが、日本にはこのようなテロ事件の発生を予測し、その原因を分析する専門機関が存在しないという点だ。確かに外務省はそれなりの調査、分析はしていると思うが、どうも頼りにならない。
 観光客襲撃を起こしたイスラム原理主義一つを例にとっても、果たして外務省に彼らとパイプを持つ外交官がいるだろうか。
 そのような人物がいるとは思えない。かつてアフガニスタンでゲリラ側の一員として戦った日本人がおり、その人に伺った話だが、日本に帰国してきた時にマスコミや民間の調査機関から問い合わせはあったものの外務省の関係者は一人も来なかったと言う。
 一番生々しい情報を持っている人物であるから、本来ならばこのような人物にいち早く接触して然るべきなのに、全く接触がなかったというのだから呆れ果てるしかない。
 
(この記事は1997年11月のものである)
 
あれから約8年…イスラム過激派のテロは各地で勃発している。
 
  
Posted by the_radical_right at 12:33 │ mixiチェック

2005年07月25日

エジプトの爆弾テロ事件について。

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エジプトにおいて史上最悪の爆弾テロが発生した。外国人観光客を狙ったものではあるが、死者の大半はエジプト人である。
このような無差別テロ事件は今回が始めてではない。今から8年程前の1997年には日本人観光客も銃撃される事件が起きた。
その頃に私の書いた論文『イスラム原理主義過激派テロ事件の教訓!」
ー日本人にとっての最善の防止策とは?ーがあるので、三回連続で投稿させて頂きます。
 
1、狂信者であっても、精神異常者ではない。
2、「平和な時代になぜ・・・・」は世界とのズレを露呈
3、最善の再発防止策を考える。
の三部構成になります。
 
【第1部】狂信者であっても精神異常者ではない
 
 エジプト南部の観光地ルクソールで外国人観光客を狙ったテロ事件が発生。日本人を含む60人もの人が死亡した。犯人はイスラム過激派の武装グループでイスラム原理主義者と伝えられている。
 この事件の衝撃度は多数の死亡者もさることながら、一般観光客に対して問答無用とばかりに銃弾を浴びせる凄惨さと、命乞いをして跪く観光客に対して、頭にとどめの一発を撃つという残忍さにあった。
 だからこそ「怒りの感情を抑えられぬ」だとか「犯人らには人間性のかけらもない」と言った論調がマスメディアを走った。今回のテロ事件を正当化する如何なる理由も見当たらない。
 しかし、だからといってそのような感情論や常識論だけで今回の事件を見ていては、事件の本質を見失ってしまうのではないか。彼ら(犯人)は精神異常者ではない。彼らは狂信者であっても、精神病患者ではない。
 エジプトのムバラク大統領は9月中旬カイロでバスが襲撃され、ドイツ人観光客9人が殺害された時、精神障害者の単独犯行だと発表した。これは意図的に彼らの行動を過小評価することで影響が広がることを避けようとしたことは間違いない。
 しかし、その事が逆に今回の残虐な行動へとエスカレートしたとも考えられる。ここはどうしても、彼らの目的、その信奉するものを解明する努力がなされて当然だろう。彼らをこのような差別的殺戮に掻き立てるものは一体何か。そのことを解明せずしてテロの根絶などできよう筈もない。
 今回の事件を報道するマスコミ論調の中で二つだけ気になったものがある。一つには「イスラム原理主義者というのは残酷なことを平気でやる非人間的な、特別な人」とする見方だ。しかし、これほどの誤解はないと考える。
 何故ならば、このようなことは戦争状態の中ではしばしば行われてきたことだし、現実に旧ユーゴの内戦やアフリカなどでは日常的に見られるものだ。
 また、イスラム教徒だけを残虐だとするのも検討違いだ。キリスト教徒もかつて同様のことをしていたし、新しいところでは我が国における地下鉄サリン事件も無差別テロであった。
 何もイスラム原理主義者だから暴力的だとか、残忍なことを平気でやれるのではなく、およそ人間というのは、そのようなものであるという点を改めて再認識すべきである。
 「人間の心というものは何だって可能だ。何故ならば全ての未来に加え、全ての過去が人間の心の中に潜んでいるのだから」
 こう言ったのは英国の作家・コンラッドが書いた『闇の奥』という小説の中で、ヨーロッパ人の心の奥には空虚しかなく、狂信主義によって充足させられる恐れがあることを彼は指摘していた。
 船乗りであったコンラッドは人間の心の奥にある暗闇は、船の中と同じような厳しい階級と秩序、規律ある社会によってのみ危険を取り除くことが可能だと考えた。
 その後、ヨーロッパは第一次・第2次大戦、ファシズム・ナチズム、そして共産主義を生んだ。第2次大戦後も西独や英国のアイルランドにおいては無差別テロが相次いだ。これらはコンラッドが指摘したように、心の暗闇から噴出した衝動であった。だからこそ、一歩間違えば脆い社会に住む、心の空虚な人々の間に広まる可能性も持つのだ。
 1916年、英国が16人のアイルランドのテロリストを処刑した時、詩人のイエーツは「恐るべき美が生まれた」と書いた。処刑されたテロリスト達は「ナベに湯をたぎらそう」と言い遺して逝った。現在も事態はまったく変わっていない。西欧・中東・南米とテロリストの死を�狃浙記瓩箸靴董△修海法峩欧襪戮�美」を感じる人がたくさんいるからだ。こういう人達にとっては自らもまた「湯の煮えたぎるナベ」を作ることにのみ人生を駆り立てていく。コンラッドは無意味な狂気だと断じたが、狂気の行動とは意味があろうが、なかろうが、結果に関係なく行われるものである。
 いずれにしても、今回の銃撃テロは人間社会の根底に脈々と流れ続けている暴力的な飽くなき衝動と、その戦慄の行動を改めて想起させた。
(1997年11月)
 
  
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2005年07月15日

若者のテロリズム傾斜を考える

           テロリズムとイスラム教
 
私はイスラムのことは知らない。ただイスラムは死後の世界を語り、そのことが若者の心を惹きつけているのかもしれない。
英国ロンドンでの地下鉄列車爆破の犯人は19歳の少年だった。
まるでピクニックにでも出かけるようにリックを背負った姿が監視カメラに映し出されていた。
このテロ事件がイラクからの英国軍の撤退を求めた政治的なものであることは確かだ。
しかし、そのことだけで若者は自らの命を絶ったのか。
この点を考えて見る必要がある。
西欧文明社会に育った彼らが、異人種故に溶け込めなかった。
そこに囁かれたのは、西欧文明の科学万能や合理性とは違った、イスラムの教えであった。
我々は元素の存在を見えないものであっても、それが科学的に立証されるから、その元素の存在を疑う者はいない。
しかし、同じように目に見えないものである死後の世界や霊の存在を信じる者は少ない。
今後、いかに科学技術が進んでも、死後の世界や魂の存在を証明することは出来ないだろう。
だから、現代文明社会に暮らす我々は、余りそのことを語らない。
しかし、ここに積極的に死後の世界を語りかける者が現れたらどうなるか?
人間は大人になる時、将来に対する「不安や迷い」を生じる。
自分の理想と現実の社会における「醜悪との矛盾」
それらとの葛藤があった時、「死後の世界」に誘われたら、それは抵抗なく入ってしまうものなのではなかろうか。
  
Posted by the_radical_right at 16:32 │ mixiチェック