「反中国講座」��
満州とアジア主義・孫文は満州を日本に一任した
日本にとって満州とは何であったのか?
満州建国に至ったアジア主義とは、どのような思想であったのか?アジア主義は日本を戦争に導いた思想として、戦後社会においては、侵略戦争の代名詞のように言われてきた。
しかし、侵略戦争とは直接結びつくどころか、その侵略戦争そのものが存在しなかったのである。アジア主義とは日本と漢民族による満州統治の約束でもあった。満州とは清王朝の故郷の地であり、それ故に漢民族にとっては「夷狄」と呼び、禍をもたらす地であった。
だからこそ漢人は彼らを北方に追いやって駆遂し、城壁を築いた。これが万里の長城であるが、これを見ても満州が漢民族固有の領土でないことは明らかだ。今日、支那大陸を支配する共産主義者もそれは十分承知の上で、古来より中国領土と強弁しているに過ぎない。
漢民族はこの満州を故郷とする清王朝に長年に渡って支配されていた。この清王朝はアヘン戦争によって国力を疲弊させ、日清戦争の敗北、義和団事件をきっかけに欧米列強に国土を侵蝕され、国家は崩壊寸前であった。
この時、孫文は「中国を興す会」を組織して、清王朝の打倒に立ち上がったが失敗して日本に亡命。孫文を日本で支援したのが、右翼の巨頭と言われた頭山満であった。
孫文は日本の右翼勢力に支援され、再び挙兵したが失敗して、日露戦争の時に再び日本に亡命した。孫文は日本の勝利を「世界史的な大転換の時代が来た」と呼びかけ、日本にいた留学生を結集して「革命同志会」を結成した。
これを全面支援したのが右翼の志士、内田良平である。当時、孫文は「中国にとって満州は外国であり、革命の成功後は満州問題は日本に一任する」と公言していた。
「革命同志会」の目的は「倒満興漢」であり、満州に対しては領土的な野心は全くなかった。孫文は満州に戻った清王朝がロシアと手を結び、再び漢民族の敵になるのを恐れたのであった。
現在、共産主義者が支配する中国において、孫文が果した歴史的な役割をどう教えているのか?是非とも知りたいものである。
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