国民を震撼させた尼港の残虐
ロシアに突然共産主義革命が始まり、それは燎原の火のように広まっていった。この共産主義革命がヨーロッパにまで伝播することを恐れた英仏などは、米国と日本にシベリアへの出兵を強く要請した。
このシベリア出兵に対しては、朝野を問わず危ぶむ声は少なくはなかった。確かに日清、日露、第一次世界大戦と富国強兵策の実が勝利となって国民の大部分は度重なる軍事行動に馴れてしまっていた。
しかし、戦争への疲れがあったことも事実であった。それに国民生活の向上と大正デモクラシーと総称された自由の空気を市井の隅々の人までもが味わっていた。このような中において、この尼港の悲報は国民に知らされたのである。
「パルチザン(共産主義者)が日本人の捕虜を全員惨殺して、市外を焼き払って逃亡」という速報であった。
降伏した日本守備隊と日本人捕虜を助けるために救援軍が派遣された。この救援軍からの第一報だった。
救援軍が市内に入って見た光景はこの世のものとはとても思えないほどの惨状だった。当時の日本の新聞社は次のように報道している。
「残虐の跡を辿りて―。憮然として残虐の跡を語る。言々皆凄愴、句々鬼気帯びて人をして流涕滝の如くを禁ぜらしむ」
「残虐な魔手に屠られたる同胞七百の悲愴なる最後―大正9年5月24日午後12時を忘れるな!是れ血塗られたる尼港事件の真相よ、国民よ!この残忍暴虐の実況をつぶさに聞け」
全員虐殺され生存者が一人もいないのに、どうして事件の全貌が分かったのかと考えるのは私だけではないだろう。堰を切ったように報道された事件の真相は、現地に派遣された記者がまるで残虐の現場に居合わせたようなリアリズムで一貫されていた。
日本人は婦女子、老人、兵隊全てが殺されたが、白系露人が何人か助け出された。思想転向を申し出て処刑を免れた生存者である。更に逃亡中に捉えられたパルチザン捕虜。彼らの口から真相が漸時明らかとなっていったのである。
また、捕虜となった兵隊や殺された家族が最後に必死の思いで書き残した様々な通信日誌や感想録が発見された。この尼港における悲劇は日本人に大きな衝撃を与えた。そして共産主義の怖さというものを嫌というほど知った。
この共産主義の恐怖というものが、後々まで日本に重く圧し掛かってきた。日独伊反共軍事同盟を締結しながら、共産主義の総本山ソビエトとは中立不可侵条約を結んだり、モスクワまで進攻したドイツのヒトラーから「ソ連に背後から攻め入って欲しい」との要請についに首を振らなかった。
更には世界最強と言われた関東軍60数万人はソビエト国境沿いに展開していたが、対峙するだけで最終的には武装解除され全員捕虜となった。勿論、自決した将校もいたが、それは南方で戦って玉砕した兵士の数からすれば極めて少ない。
これらの事実は第二次世界大戦の原因を「自存自衛の戦い」「アジアの解放」の二つにしか求めてこなかった点に表わされている。
「共産主義との戦い」が強調されなかった背景として、この残虐事件があり、共産主義への恐怖が解けなかったということが考えられるのである。
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このような西欧社会に朝日新聞社は「節度と寛容の心を持て」と説くのである。しかし、これはまるで説得力を持たない。およそ第三者としての論評でしか在り得ない。西欧社会は米国と違って、朝日新聞社が親しみを持つ社会民主主義政党が一度は政権の座に納まった社会である。
忘れられない、いや忘れてはいけない生き証人の言葉

