2006年04月09日

帝国軍人の墓に毎年300人が(平成元年当時)

3f4a7005.jpg「反中国歴史講座」 ��

石原莞爾先生の予言「世界最終戦争論」(2)

 私は平成元年8月13日、盆休みを利用して石原莞爾先生の墓参りに出かけた。石原莞爾先生は満州における満鉄爆破の謀略の張本人とされた。石原先生はこの時42歳であり、関東軍参謀本部中佐であった。

 この頃の石原先生は「世界最終戦争論」を心に描き、来たるべき最終戦争の時代に備えていた。しかも、先生の描いていた最終戦争とは今、目の前に進行する満州馬賊や共産ゲリラ、ソビエト軍との戦いではなかった。

 石原先生が考えていた最終戦争の時代とは、まだこれから到来するものであった。だからこそ、その著「世界最終戦争論」とは予言の書であったのである。

 そう考えるなら、この時、石原莞爾陸軍中佐が謀略を用いてまで作戦を遂行する必要性など全くなかった。石原先生はこの満州事変後、戦争の拡大に反対し続け、結果的に軍を追われた。

 単なる軍人であれば、その行動や主張はその時々において変節し、一貫性がないと批判されるかも知れない。しかし、石原先生は戦争と文明は不可分の関係にあり、文明の発展と共に戦争の形態も変化し、戦争そのものが、やがて最終的な戦いを経て消滅する。

 このような理論を構築して世に示した方である。そのような先生が満鉄爆破による電撃作戦による敵の殲滅などという、古典的な作戦に固執して戦争を始めるはずなど絶対にないと私は信じる。

 さて昨夜の続きに入ろう。
 こんもりと高く積まれた山の上に石塔が立っていた。周りはきれいに掃き清められ、菊の花が飾られている。石碑には石原先生の唱えた「都市解体・農工一体・簡素生活」の文字が刻まれてあった。

 私の胸の中に大きな感動が起き、胸がジーンと熱くなるのを覚えた。  
 何故か目に涙が溢れ、ズボンに土がつくのも構わずその場にしゃがみ込んだ。暫しの間、時を忘れるほどに瞑想した。

 幽明境(さかい)を異にした先生の声を聞こうとしたが叶わなかった。考えて見ればまだ私は先生の声を聞くほどの人間ではなかった。しかし、嬉しかった。自分の探し求めて来たものと、やっと会えた。少年の頃の嬉しさとでも言ったら良いか、とても爽やかな気持ちであった。

 ふと周りを見ると、赤い郵便ポストが一つ目に入った。一体何があるのだろうと開けてみると、中には一冊の記帳簿と書かれた大学ノートがあった。

 それを開けた私はまたしても大きな感動を覚えた。そこに記帳してあったその人間の数の多さであった。私が行ったこの日の午前中にも一人の記帳が見られた。

 前年の8月の最初に書かれたその日から、それまでの間にゆうに300人を超える人のご記帳があったのである。遠くはブラジルのサンパウロやリオデジャネイロ、日本は北海道から九州まで全国一円に渡っていた。

 亡くなってもなお、今日、これだけ多くの人を惹きつける魅力を持った<帝国軍人>がいることに私は驚愕した。日本は戦争に敗れ、軍人は悪罵の限りが投げつけられてきた。

 しかし、ここに、この東北の寒村の片隅の山林の中に眠る<帝国軍人>は、多くの日本人が心からの親しみを持って、今でも忘れられないで来たのである。

 日本人はまだまだ捨てたものではない。正しいものを、正しいと思う心を忘れてはいなかった。
 
私は石原先生の墓に来たのが、如何に遅かりしかったか、自分の不勉強さに恥じたのであった。

ブログランキング  応援よろしくお願いします!

  
Posted by the_radical_right at 17:39 │ mixiチェック │反中国講座 

安倍批判、福田支持を売り歩く「ミスター円」

0fa9a0dc.jpg

榊原「ミスター円」の安倍批判、福田支持を斬る!

 榊原氏は夕刊フジのコラムの中で、小泉首相を批判。ポスト小泉について福田康夫支持を明確に打ち出し、安倍晋三氏については辛辣なる批判を展開している。

「小泉首相になってから対米外交のみを重視し、アジアとの関係改善に力をそそがなかったばかりか、靖国問題や歴史認識問題などで対アジア外交をこじらせてしまった」

 これは媚中派議員や朝日新聞社が得意とする「小泉批判論」の根拠だが、小泉首相が語ってきたように、「日米関係さえ磐石であれば、少々ギクシャクしていても問題ない」が答えになる。

 彼らのいうアジア外交とは中韓や北鮮を指すのであろうが、この3か国と今後まともに付き合うことを考えない方が良い。何故ならば、彼らは自らの国内の政治情勢から、日本に発信しているに過ぎないからだ。

 ようするに、靖国問題は日本側が毅然とした態度でいれば、「外交カード」にはならず、いずれは考え直すと思うからだ。中韓との経済関係は良好に推移しており、焦る必要など全くない。

「安倍晋三政権になれば、若干の修正はあっても、対中、対韓で強硬路線が継続する可能性が高い。単に国内でポピュリズム的人気を持つということでだけで、本当に日本の内政、外交を引っ張っていくことが出来るのかという疑問が生じ始めているも不思議なことではない」

 小泉外交路線の継続こそが、特定アジア諸国からの侮りを撥ね付け、日本国家の尊厳を守る道である。これを安部氏が表明しているからこそ高い支持率を保ち続けている。

 昨日も紹介した「論座」の「波立つ日中関係」記事の中から、この榊原氏の基本的な思想と考え方を見ていくことにしよう。

「きわめて反中国的な過激な言説というのは、たいてい親米保守の人から出てきてますね。こうした言説は、アメリカでは存在しないんですよ。日本のきわだった特徴です」

 中国脅威論など親米保守派のでっち上げだと決め付けているが、呆れて論評にも値しない。彼は米国のほんの一部の「親中国派」と結びついているのだろう。米国の世論が共産中国に対して警戒感を強める方向に流れているのは誰の目にも明らかだ。

「アジア外交の改善を期待して福田康夫人気が高まっているのもごく自然のことであろう。自民党も民主党もただ選挙受けがいいということだけで、未熟な若手をトップに据えることの問題点をもっと認識すべきでないか。今、日本が真に必要としているのはバランスのとれた大人の政治ではないだろうか」

 ここまで露骨に福田支持の弁をのたまうとは恐れ入った。

 榊原氏に限らず親中・媚中派に共通する思考だが、米国に従属せずに日本は日本なりの自主性を持ってアジア戦略・戦術を組み立てていくべきだとの主張がある。

 これを日米分断・離反工作と言わずして、何と言えばよろしいのか。  
 彼らの言葉に耳を貸すことは、日本を危うくすることである。我々はそれを肝に銘じ、このような「反日学者・評論家」の言動を今後も厳しく監視していかねばならない。

ブログランキング  応援クリックお願いします!

  
Posted by the_radical_right at 08:19 │ mixiチェック │偏向報道・反日マスコミ 

2006年04月08日

石原莞爾先生の予言から学ぶ〔1〕

548ab34e.jpg

「反中国歴史講座」 ��

石原莞爾先生の予言「世界最終戦争論」(1)

 今日は満州問題を語る上で絶対に避けることの出来ない戦略家・石原莞爾先生について触れてみたい。私は平成の時代が始まった頃に、急に石原莞爾先生について学びたくなった。

 冷戦の崩壊で戦争の危機が遠のいたと一般的には云われ、平成という年号が「平和が成る」という願望から命名されたと聞いた時に、「世界最終戦争論」を世に出した石原莞爾先生の書物がどうしても目についたからであった。

 もっとも石原先生のことを全く知らなかったわけではない。ただし先生に心酔するようになったのは、昭和の時代の終わり頃から平成の時代にかけてであった。今回は「世界最終戦争論」そのものよりも、私が学んで行く内に経験したことなどを書かせて頂こう。

記帳

 念願かない、先生の墓に参りました。先生の唱えた「世界最終戦争」を読破して、居ても立ってもおられない心境でこの地にやってきました。やがてくる「世界最終戦争」の時代に勝利して、国家・民族の繁栄に尽くします。

平成元年8月13日     瀬戸弘幸     37歳

 今から17年前の私の日記に書かれた、石原莞爾先生の墓参の記事の中にある事柄だ。この日記から紹介させていただきます。

 8月13日、日本列島は熱い夏の真っ只中にあった。盆休みを利用して、かねてから行かなければならないと思っていた山形県鶴岡に向った。東北自動車道の村田インターから、新しくできた山形に向う高速道路に乗り換えて鶴岡市に向った。

 深い緑に覆われた山々、ひときわ目につく高い山は国立公園にも指定され、登山家なら一度は必ず登っている月山である。周りの素晴らしい自然に見とれながら車を飛ばしていると、今度は見渡す限りの水田地帯に入った。

 庄内平野は一面が緑に覆われていた。稲の穂が一斉に出始めたばかりで、風に揺れその穂が波打つ姿は壮観そのものだ。私が目指すのは鶴岡市と酒田市の丁度中間に位置する西山町である。

 石原先生は日本の敗戦後、自分の生まれ故郷に帰り、この地を開墾されて西山牧場をつくった。今日、開墾や開拓などと言えば、何か夢や浪漫を感じさせる言葉だが、当時は大変な苦労を伴う事だった。

 私の母方に戦後都会から田舎に来られて開墾地に入られた人がおり、その経験談を直接聞いたことがあったが、私には信じられないようなことばかりだった。

 家を建てるのにも材料がまったくなく、先ず山間に穴を掘り何本かの杭を打ち、その上にトタンの屋根をかけて雪や風の寒さを凌いだというのだ。西山町も日本海側からの冷たい風にさらされる場所にあった。

 地元の人達に聞きながら目的地を探したが、尋ねる人すべてが「あっ〜あの偉い先生ですね」と言って教えてくれた。

 昼でも松林に覆われ薄暗い、そんな道を進んでいくと、そこの場所だけぽっかりと穴が開いたように光が差す場所があった。そこにこんもりと土が積まれて高くなっている場所があった。

 先生の墓は小高い山の上にあった。石原先生の墓という案内板がなければ、それが墓とは思わない。見過ごして通り過ぎてしまう、そんな質素なものだった。

 私はこの墓で驚くべきものを目にすることになった。

 それはまた明日の夜に書かせて頂きます。思わせぶりですみません。あまり長い文章になるよりは短い文章で進めて行きたいと思います。

※石原莞爾先生のファンの方は是非コメントください 

 ブログランキング 応援よろしくお願いします!

  
Posted by the_radical_right at 19:02 │ mixiチェック │反中国講座