2006年06月11日
中共によるチベット侵略の実態(その��)
目を覆わんばかりの蛮行―!!
‐これが解放という名の民族根絶政策だ‐
一九八九年九月末から十月初めにかけて、ラサで大規模デモが発生した時、同年十月二日付の新華社報道は「事件はダライ・ラマ集団による陰謀」として亡命政府を批難した。しかし、折りしも米国議会上院では『中華人民共和国によるチベットでの人権侵害に関する法案』が十月六日に可決され、これによって世界中の多くの人々がチベットで何が起きているかを知ることになる。
このデモが起きた時、米国人の女医ブレイク・カー女史は、米国チベット医学調査隊を組織するためチベットに滞在しており、眼前で「発砲と殴打による傷がもとで、六人のチベット人が間もなく死亡したのを確認」したり「他の負傷者を秘密裡に治療することになった」という。
また、チベット滞在中に「注射によって赤ん坊を殺され、さらに産んだ女性自身も、彼女の意思を無視した不妊手術をラサ人民病院で強行された」というチベット人女性に会い、その話が忘れられず、真実かどうかを確かめるためにに翌一九八八年秋、インドにあるチベット難民居住地を訪ねている。
その報告が『ワシントン・ポスト』に寄稿され、デイリー・ヨミウリに転載された。
この報告に、中国の言うチベット人を幸せにした<解放>の具体的なことが述べられている。この事実から、中国のチベット<解放>の目的が垣間見える。
カー女史は「とりわけおぞましい話」として、二人の亡命僧から聞いたことを次のようにつづっている。
「アムドの私たちの棟の隣に、中国の産児制限班がテントを設営した。村の女性は一人残らず中絶手術と不妊手術を受けるために出頭するように、さもなければ重大な結果を招くことになる、と告げられた。言われたとおりにテントに行き、素直に従った女性たちは医療処置が施されたが、従わなかった女性たちは強制的に連れて行かれ、手術をされ、医療処置も施されなかった。九ヶ月の身重の女性たちにも胎児摘出手術がなされた。
テントが村にあった二週間の間に、すべての妊婦は不妊を伴う中絶手術を施され、妊娠可能な年齢層の女性は一人残らず不妊手術を受けさせられた、と二人の僧侶は訴えた」
「三人の女性は、親戚や知人が健康な赤ん坊を産んだにもかかわらず、看護婦が赤ん坊の額の柔らかい部分に注射をして殺してしまった次第を口々に語った」
確かに中国では一人っ子奨励政策と産児制限政策をとって、人口抑制を企っている。しかし、妊娠可能な年齢層への不妊手術や九ヶ月胎児の摘出手術、あるいは赤子の毒殺は、果して産児制限策の枠内のことと言えるのだろうか。一般の中国人(漢人)にはここまで強制されているとは聞かないから、恐らくチベット人女性のみに行われているようだ。
カー女史の報告は、ラサ刑務所内の過酷な拷問もつづっていた。
「ひとりひとり裸にされ、両端に釘を打ち込んだこん棒やライフルの台尻、電気牛追い棒、警棒などで失神するまで殴り続けられた。それから冷たい水を浴びせられて正気に戻された。睾丸は押し潰された」
この他にも、チベット人女性は一人目を産んで四年経たないと二人目は産めず、三人目を産むのはほとんど不可能であるとも述べ、もしそれらの規則を破れば不妊手術とともに、十数年分の給料に匹敵する経済的な制裁が加えられるとも報告していた。
さらに、強制的に受けさせられる中絶や不妊手術に、百元から二百元(半年以上の給料に相当)ものお金を徴収されているとも述べている。
この他にも、デモで殺されれば五百元、負傷すれば六十元のお金を、その家族は�狃特討梁絛皚瓩箸靴督Ъ�されるという。
妊娠可能な女性は不妊手術を強制され、身籠っている女性は中絶手術を強制され、独立デモで捕まった男たちは睾丸を潰される。
そして、そのそれぞれに経済的制裁が加えられた。
このような中国の<解放>政策は、最終的にチベット民族の根絶を目的とする以外の目的が他に考えられるだろうか。
これを大虐殺(ジェノサイド)と言わず、何を大虐殺と言おう。
チベット亡命政府が一九八四年に公表した死者総数は百二十万人である。
内訳の概数は、戦闘や決起によるもの―四十三万二千、餓死―三十四万二千、獄死・労働キャンプ内での死亡―十七万三千、処刑―十五万六千、拷問―九万二千、自殺―九千となっている。
この数字は北京側の資料からも十分類推できるものだ、中国専門家も認めている。
百歩、いや千歩、いや一万歩譲って日本の南京大虐殺者数を三十万人と仮に認めても、百二十万人には遠く及ばない。中国はそれほどの大虐殺をチベット人になしてきたのだ。そして、それは未だに続いている。
ダライ・ラマ十四世は、このような中国のチベット政策は「民族の根絶を目的としたものです」と日本の週刊誌にも述べ、ノーベル平和賞受賞の記念講演でも明言した。
東西冷戦は遠い昔に終結したが、中国と北朝鮮という共産主義独裁国家を抱える東アジアにおいては未だに冷戦の真っ只中である。
日本と同じ仏教国であるチベットに我々は何を為すべきだろうか―。共産中国討つべし―!!
極右評論管理者・AKI
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2006年06月10日
中共によるチベット侵略の実態(その�◆�
「解放」という名の虐殺
平成元年、チベット文化研究会理事の小林秀英氏が『文藝春愁』に「中国の恥部を突いたノーベル賞―天安門事件より凄まじいチベット�牴鯤��瓩亮詑屐�という論文を発表。それまで日本のマスコミが何を慮ってか、その実態を報じてこなかったかという問題も突いている。
中国の言う「解放」とは、次のようなものだった。
「強制的な土地改革が強行され、多くの土地や家屋を没収した。没収した土地には多くの中国人が移住してきた。
新たに導入された課税法はチベット人の生活を圧迫し、それにも増して人々は軍用道路建設のために過酷な労働を強制された。
共産主義の宣伝・教化と、仏教の信仰撲滅を目的とした思想改造運動が展開された。
僧侶は共産主義の学習を強制され、労働にも駆り立てられた。多くの者が結婚を強制された。反抗した者は投獄されるか拷問の上、惨殺された。一般のチベット人は漢民族との結婚を強制され、あるいは不妊手術を受けさせられた」
先に掲げたダライ・ラマ十四世の自伝『チベットわが祖国』の翻訳者の解説によると、ダライ・ラマ十四世がインドへ脱出した直後の一九五九年三月二十八日付で、周恩来は総理として国務院命令として次のように通達したという。
「チベット地区駐屯の中国人民解放軍に、責任を持って『反乱』を平定し、また、直ちに従来のチベット地方政府を解散して、チベット自治区準備委員会に地方政府としての全ての職務権限を行使させるように」
つまり、中国は一九五〇年十月にチベットに侵略、一九五九年三月にダライ・ラマを追い出し、その直後から強制的な土地改革をはじめとする<解放>政策を施行したのだ。
その<解放>政策は今も続いている。
中国の言う<解放>に反対するが故にデモが繰り返されているのである。これらのデモは全てチベット独立を掲げた、チベット仏教僧を中心としたものだったが、ことごとく中国側の軍と警察によって弾圧されたというのが実態だ。
中国共産党は、これまでチベットについてどのように宣伝してきたかと言うと「我々はチベットの民衆を解放し、幸福にした」という偽りの誇大広告的宣伝を繰り返してきたに過ぎなかった。そのことは、その幸せなはずのチベット自治区の人々が大規模デモを繰り返し、それを中国が戒厳令を強いてまで弾圧しなければならなかったという事実が証明していよう。
一九八九年三月八日に発せられた戒厳令は、約一年二ヵ月後の翌年五月一日に解除されたが、この時のデモによる双方の死者を中国当局は十六人、負傷者百人強と発表していた。
しかし、前掲の文藝春愁に掲載された小林論文によると「戒厳令下のラサから脱出してきた中国人から、三月五日から七日までのデモで殺されたチベット人が二百人以上いるという情報も得られた」としていた。
一方、インドのダラムサーラにあるダライ・ラマ十四世を中心とするチベット亡命政府は約八百人のチベット人が家庭探索によって殺され、約二百人が三月五〜七日のデモの最中に殺されたことを伝えていた。
中国政府が伝える死者は十六人、逃げてきた中国人の証言が二百人、チベット亡命政府が伝えるところによると一千人…。
一つの事件で中国側発表の発表と、チベット亡命政府の声明でこうも食い違う。
日本でも事件状況と警察発表が食い違うことはよくあるが、一桁も二桁も食い違うことはまず有り得ない。
この場合はやはり亡命政府の伝える数字に真実味があったと言えるのではないか。これが少し誇張された数字だとしても、チベットの言うデモの死者数が逃げてきた中国人の言う死者と符合する。
これが中国の言う<解放>の結果であり、デモ鎮圧の結果ということになる。この死者数に中国の解放政策失敗が如実に示されていよう。そのデマゴキーも隠すより現る如く、中国人民は騙せても、諸外国に通じないことを端なくも証明していた。
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2006年06月09日
中共によるチベット侵略の実態!

ノーベル平和賞を受賞したダライ・ラマ十四世が明言したその大虐殺!
チベットの悲劇は今から五十年以上前の、一九五〇年十月に始まった―。
中国共産党がラジオを通じて「チベットは中国の一部であり、人民解放軍は帝国主義者からチベット人民を解放するために、チベットに進撃するであろう」と発表するや否や、中国人民解放軍は東チベットのアムドに侵攻―。
当時のチベットは完全な独立国だった。一九四八年(昭和二十三年)、チベット政府の通商代表団がインド、中国、フランス、イタリア、イギリス、アメリカの6ヶ国を訪問したことがあった。チベット政府はこの代表団のためにパスポートを発行し、それはこれらの国々の政府によって認められていたからである。
このような事実によっても、チベットが完全な独立国であったことは証されるし、さらに、第三者的立場に立つ英国議会人権擁護グループも「一九一二年から一九四九年まで、チベットは外国の正式な承認を獲得する努力をほとんどしなかったが、その実態としては完全な独立国であった」と証しているのである。
このような独立国チベットを、中国は「帝国主義者からチベット人民を解放する」と称して侵略したのだった。
当時のチベッド軍の軍備と言えば兵力八千五百人、大砲わずかに五十門、機関銃二百丁を持っているに過ぎなかった。人民解放軍にしてみれば、赤子の手を捻るよりも容易い侵略だったのである。
侵攻から二日目の十月十九日、東チベットの州都チャムドが陥落。その後、この圧倒的な武力を背景に中国はチベットに服従すべく交渉し始めた。
このような厳しい状況下、わずか十五歳で摂政から政権を引き継いだのがダライ・ラマ十四世である。
ダライ・ラマ十四世は、そのような中国との関係を改善すべく、国連にアピールしたり、中国最高指導者だった毛沢東に直接会ったりした。
毛沢東に会ったのは一九五四年のこと。その時、毛沢東は次のように「低い声でささやいた」とダライ・ラマ十四世の自伝『チベットわが祖国』に著されている。
「宗教は毒だ。宗教は二つの欠点を持っている。まずそれは民を次第に衰えさせる。第二に、それは国家の進歩を妨げる。チベットとモンゴルは宗教によって毒されてきたのだ」
中国側の最高指導者が宗教について、そのように考えていたのである。毛沢東と共に指導者として名を連ねていた、周恩来や��小平もまた同じように考えていたのであろう。その結果、侵略以前には二千七百もあった寺院が「仏教の信仰撲滅を目的」として二千二百が破壊され、さらに文化大革命によって残る五百の寺院の多くが壊され、完全な形で残った寺院は二〜三ヶ所しかないと伝えられたものだ。
ちなみに、チベットは日本と同じ仏教国だったことは知られているが、三十三代目の王と言われているソンツェン・ガンポ王の治世即ち七世紀に、主にネパールとインドから仏教が入ってきている。
特にインドの仏教の最終段階において絶大な影響力を持った密教の要素が大幅に取り入れられているという。
さて、いかにダライ・ラマ十四世が中国との関係改善を図ろうとも、毛沢東の中国には、改善の意思は全く見られなかった。
一九五九年三月、解放軍による迫害がダライ・ラマ自身にも及ぶことを察知し、同月十七日にダライ・ラマ十四世と数十名のチベット人たちは首都ラサを脱出し、インドに亡命することを余儀なくされたのであった。
中国は当初、ダライ・ラマ十四世とその住まいは絶対に攻撃しないと約束していた。また、ダライ・ラマ十四世を守ろうとして、その住まいであるノルブリンカ宮殿を取り囲んでいる数千人のチベット人にも迫害は加えないと約束していた。
しかし、約束は破られるためにあるとは中国のために用意された言葉であるかのように、雨のような砲弾が宮殿をめがけて放たれたのである。
「砲撃は三月二十日早朝午前二時に開始された。それは、私が出発してからちょうど四十八時間あまりのことであり、中国側がまだ私の脱出を発見する以前であった。彼らはその日一日中、ノルブリンカ離宮を砲撃した」(『チベットわが祖国』より)
当然のことながら「数千におよぶ死体がノルブリンカ離宮の内外に見られた」(同)という。
帝国主義者とは誰なのか、どこにいるのか、それを明確にしないまま(それは現在でも明確にされていないのだが)「帝国主義者からチベットを解放する」として、一方的に独立国チベットを侵略した中国はその後、どのような「解放」政策をとったのだろうか―。
《続》
極右評論管理者・Taka
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