亡国マスコミが錯覚する擬似権力への道
朝日新聞社の社説「首相年頭会見、わたしたちこそ理解できぬ」については、「思わず理解できないのは、お前達がアホだからだ」と返してやりたいくらい腹が立った。しかし、彼らはアホではない、高学歴者ぞろいである。彼ら新聞社に勤める人達の内面を考察してみたい。
新聞社に大学を出て就職する人は最初から、権力志向ではない。どちらかと言えば反権力志向が強いと見られる。しかし、次第に彼らは権力の魔力に取り付かれてしまう。
本来、持つべき社会の木鐸としての立場を忘れ、いつの間にか自分達が世の中を動かしているという錯覚に陥ってしまう。それが社説の次の箇所から読み取れる。
「理解出来ない…とは新聞社の社説も念頭に置いてのことだろう。全国の新聞のほとんどが参拝をやめるように求めているのに『理解出来ない』と口をとがらせるよりも、少しは�犖析誠有瓩蕕琉娶�に耳を傾けてはどうか」
これは謙虚さに欠けた物言いであり、自分達が政治家より上だという思い上がりを感じる文章でもある。まるで自分達が理解できるようにしなくてはいけない、と決め付けているが、それこそ権力者の考えそのものであろう。
一昨日、マスコミは今や我が国の第四権力であると書いたが、これは故秦野章氏の著「何が権力か」の中で、そのような意見もあると紹介したもので、私は彼らマスコミは権力にはなり得ないと思う一人だ。
現代の日本社会に蔓延ってしまったマスコミだが、いかに強い影響力を有するように見えたところで、決して権力に成り得るほどの代物(シロモノ)ではない。なぜならば、権力とは統一された一つの社会を組織的に支配するものであり、その存在の前提として、当然のことながら責任の主体が明確にされなければならない。
その責任の主体を明確にすることをおざなり、もしくは拒否して、民衆を支配するなどおよそ不可能である。民衆を支配できない(民衆から支持されないと置き換えても良い)権力は、本来の権力とは言いがたい。
かりに社会において、現在の権力が実質的な支配権を失った時、必然的に民衆は次の権力を求める。力を失った権力は民衆に対して責任能力を有しないわけだから当然のことである。
では我が国のマスコミがそのような立場となれるのか、再度言うが民衆の支持があって初めて支配は可能となる。民衆から支持されているという大いなる錯覚を持ったマスコミ集団にその資格はない。
「全国の新聞のほとんどが…」と言うが、それがどれ程の力なのかと問いたい。終戦より米国の占領政策が始まれば、それまでの報道姿勢を一変させ、権力の代弁機関の一端を担ってきた。そこには国家に忠実でなければと言う骨っぽさは微塵も感じられなかった。
テレビ報道に至ってはもう論外と言う他はない。その時々の興味本位の馬鹿騒ぎネタや低俗番組を次々と世に送り出し、国民の良心を麻痺させる役割を果たしてきた。いうなれば日本のマスコミは汚物に群がる蝿のごとく、頽廃文化の病原菌を無差別にばら撒くという大罪を犯してきたのである。
明日以降はこの亡国マスコミの許すべからざる罪科の一端を、愛国心との関係で論じて見たい。何故マスコミ人には愛国心が欠如しているかだ。
私は昨日朝日の社説を見て、怒りが込み上げて来るのを抑えられず、午後には靖国神社へ参拝に出かけた。いつもながらの参拝客で溢れていた。
我々は決して他人のためには死ねない。しかし日本という国家のためには死ぬ事ができる。何故ならば、全身全霊を捧げることの出来る存在、それは国家というものしか見当たらないからだ。かつて我々の先輩は特攻隊となって敵の艦隊に突撃して死んでいった。これは日本という国家のために尊い生命を捧げたのである。
我々《極右》はその行動を神聖なものとして受け止め、その意志を今に継ぐ闘いを続ける。新しい年が憂国の志士たちにとって、飛躍の年となることを祈り靖国を去った。
(写真は昨日・靖国神社にて)
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