2006年01月07日

愛国心なき新聞社の犯罪性

           亡国新聞社の犯罪性を斬る(第一弾!)

 日本のマスコミの許すべからざる罪科を挙げてみよう。
 第一にそれは「愛国心の欠如」だ。多くの国民はこの国を愛している。それを無視して一部の劣等意識にとりつかれた考えをもって、さも自分達が時代を代表する良心であるかの如く報道するなどは、愛国心の欠如以外の何ものでもない。

 未だに国旗掲揚、国歌斉唱に反対する勢力を擁護して、国旗や国歌が戦争勃発に繋がるなどは、幼稚園児にも劣る発想と言わざるを得ない。教科書問題の「進出」から「侵略」への書き換えや南京大虐殺報道など、一貫した共産中国寄りの報道ぶりは、多くの日本国民の心情を逆撫でするものである。

  これらの報道は彼等マスコミが権力に強制され、やむを得ずに報道している訳ではなく、終始一貫して日本国を貶めようとの策略によって行われてきた悪質極まりないものだ。彼等に愛国心のひとかけらも見出すことは出来ない。愛国心を持つことは、同時に国民を愛することであり、国民の幸せを求めることである。

 それはまた、国際社会において相手国の立場を理解しつつ、共存共栄を計って行くことにもつながる。相手国が逆にこの精神を解せずに無法な行動にでるならば、当然相応の対処が必要となる。

 国際協調の推進の基底には、常に一国の国益が優先されるのは当たり前であり、その国益を守るという精神が愛国心である。それぞれの国が国家間の対立した諸問題に対しては、愛国心を持って臨むのは自明のことである。

  このような厳しき現実の中で、国論を分裂させるような報道は邪道である。マスコミは反国家的な報道が進歩的とかリベラルとか言っているが、全くの勘違いであることは言うまでもない。

 共産中国などは一党独裁であり、政府に逆らうような新聞社は存続できない。情報は厳しく管理され操作されており、人民大衆は真実を知ることが出来ない。

 我々はそのような共産主義国家と対峙しているのである。このことを肝に命じなければならない。その報道姿勢の根底に国家意識も愛国心もない日本のマスコミが、国益を忘却し民族の誇りを傷つけることに狂奔したとしても何ら不思議ではない。これは極めて憂慮すべき事態と言えよう。

 これまで日本の為政者どもはこのような愛国心無き亡国マスコミを恐れ、それにひざまずくことによって、政治の舞台における彼等の跳躍跋扈を許してきた。これは為政者とマスコミによって作り出された国家への挑戦であった。国家に対しての反逆行為にも等しい。愛国心を持つ国民の心情に対する裏切りでもある。この意味で彼等はもはや日本人ではない。

明日はマスコミの通俗民主主義批判を投稿します。

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Posted by the_radical_right at 14:16 │ mixiチェック │偏向報道・反日マスコミ 

2006年01月06日

擬似権力・朝日新聞社を糾弾する!

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     亡国マスコミが錯覚する擬似権力への道

 朝日新聞社の社説「首相年頭会見、わたしたちこそ理解できぬ」については、「思わず理解できないのは、お前達がアホだからだ」と返してやりたいくらい腹が立った。しかし、彼らはアホではない、高学歴者ぞろいである。彼ら新聞社に勤める人達の内面を考察してみたい。

 新聞社に大学を出て就職する人は最初から、権力志向ではない。どちらかと言えば反権力志向が強いと見られる。しかし、次第に彼らは権力の魔力に取り付かれてしまう。

 本来、持つべき社会の木鐸としての立場を忘れ、いつの間にか自分達が世の中を動かしているという錯覚に陥ってしまう。それが社説の次の箇所から読み取れる。


「理解出来ない…とは新聞社の社説も念頭に置いてのことだろう。全国の新聞のほとんどが参拝をやめるように求めているのに『理解出来ない』と口をとがらせるよりも、少しは�犖析誠有瓩蕕琉娶�に耳を傾けてはどうか」

 これは謙虚さに欠けた物言いであり、自分達が政治家より上だという思い上がりを感じる文章でもある。まるで自分達が理解できるようにしなくてはいけない、と決め付けているが、それこそ権力者の考えそのものであろう。

 一昨日、マスコミは今や我が国の第四権力であると書いたが、これは故秦野章氏の著「何が権力か」の中で、そのような意見もあると紹介したもので、私は彼らマスコミは権力にはなり得ないと思う一人だ。

 現代の日本社会に蔓延ってしまったマスコミだが、いかに強い影響力を有するように見えたところで、決して権力に成り得るほどの代物(シロモノ)ではない。なぜならば、権力とは統一された一つの社会を組織的に支配するものであり、その存在の前提として、当然のことながら責任の主体が明確にされなければならない。

 その責任の主体を明確にすることをおざなり、もしくは拒否して、民衆を支配するなどおよそ不可能である。民衆を支配できない(民衆から支持されないと置き換えても良い)権力は、本来の権力とは言いがたい。

 かりに社会において、現在の権力が実質的な支配権を失った時、必然的に民衆は次の権力を求める。力を失った権力は民衆に対して責任能力を有しないわけだから当然のことである。

 では我が国のマスコミがそのような立場となれるのか、再度言うが民衆の支持があって初めて支配は可能となる。民衆から支持されているという大いなる錯覚を持ったマスコミ集団にその資格はない。

 「全国の新聞のほとんどが…」と言うが、それがどれ程の力なのかと問いたい。終戦より米国の占領政策が始まれば、それまでの報道姿勢を一変させ、権力の代弁機関の一端を担ってきた。そこには国家に忠実でなければと言う骨っぽさは微塵も感じられなかった。

 テレビ報道に至ってはもう論外と言う他はない。その時々の興味本位の馬鹿騒ぎネタや低俗番組を次々と世に送り出し、国民の良心を麻痺させる役割を果たしてきた。いうなれば日本のマスコミは汚物に群がる蝿のごとく、頽廃文化の病原菌を無差別にばら撒くという大罪を犯してきたのである。

 明日以降はこの亡国マスコミの許すべからざる罪科の一端を、愛国心との関係で論じて見たい。何故マスコミ人には愛国心が欠如しているかだ。

 私は昨日朝日の社説を見て、怒りが込み上げて来るのを抑えられず、午後には靖国神社へ参拝に出かけた。いつもながらの参拝客で溢れていた。

 我々は決して他人のためには死ねない。しかし日本という国家のためには死ぬ事ができる。何故ならば、全身全霊を捧げることの出来る存在、それは国家というものしか見当たらないからだ。かつて我々の先輩は特攻隊となって敵の艦隊に突撃して死んでいった。これは日本という国家のために尊い生命を捧げたのである。

 我々《極右》はその行動を神聖なものとして受け止め、その意志を今に継ぐ闘いを続ける。新しい年が憂国の志士たちにとって、飛躍の年となることを祈り靖国を去った。  
(写真は昨日・靖国神社にて)

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Posted by the_radical_right at 11:22 │ mixiチェック │偏向報道・反日マスコミ 

2006年01月05日

小泉首相・伊勢神宮参拝の記事を見て、日本は「神の国を」想う

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      日本の伝統・文化の素晴らしさを誇りとしよう。

新しい年が開け正月気分も抜け、いよいよ仕事始めだ。皆さんも普段通りの生活に戻られたと思います。小泉首相も昨日は定例の記者会見を終えた午後には伊勢神宮を参拝されました。

伊勢神宮の前で小泉首相が先ず何を一番最初に思われたのか。激動するアジア情勢とりわけ共産中国や北朝鮮との厳しい対立を念頭に、国家の安寧と発展を祈念されたと考えます。

私は平成14年の正月に参拝してから、ここ3年間はお参りしていませんが、目を閉じるとあの壮観さが浮かんできます。我々日本人にとって伊勢神宮に限らず、日本全国にある神社というものは、鎮守の森と呼ばれ数多くの木々に取り囲まれて静かにただずんでいます。

伊勢神宮については皆さんもご承知ですが、ここでもう一度考えて見たい。前森首相の「日本は神の国」発言もあったし文部科学省が教育基本法の見直しを進めているが、その中でも「日本の伝統・文化にはっきりと言及することが大切である。」との「教育改革国民会議」の答申もあった。

伊勢神宮とは天皇家の宗廟であり、皇大神宮と豊受大神宮の総称であり、皇大神宮の祭神は天照大神である。これらの神は全国の神社にも祀られており、一般家庭にも祀られている。

世界の民族は神々の神話を持っており、我が日本においてはこれらの神社に祀られている神々が日本の伝統や文化を築いてきたと言っても過言ではない。その意味からすれば、小学校の頃から日本の伝統・文化と密接な関係にある、この伊勢神宮を修学旅行などの機会を兼ねて学ばせるべきである。

余談になるが最近修学旅行で中国に行く学校が増えているそうだ。南京虐殺記念館などを見るコースが組まれていると聞く。そんな修学旅行なら百害あって一利なしだ。言語道断でもってのほかと言うしかない。

伊勢神宮の森は壮観そのものだ、何百年という年代を感じさせる大木が立ち並ぶ。その中に敷かれた玉砂利を踏みしめて前に進む。都会の日常からは決して得られることのない空間に吸い込まれ、やがては充足感に浸ることが出来る。

それは我々日本人が心の奥底に仕舞いこんでいる深層心理を刺激するのかもしれない。人間も自然界における一つの構成員に過ぎない。あの森の中を進むと心がまるで洗われたかのような気持ちになるから不思議だ。

社殿は木作りの平屋建てで、質素そのものである。しかも周りの森にいかにもマッチしているから、思わず“素晴らしい”と叫びたくなる。新興宗教の多くが周りを威圧するかのような、巨大な神殿をつくり威勢をはる愚かさとは明らかに違う。

この素朴な平屋建ては20年ごとに作り変えられてきた。石で作られた永久建築物の神殿とはそこも違っている。これも世界に類を見ない日本独自の文明である。

この伊勢神宮で「大嘗祭」などの皇室行事が行なわれた。我々はあの行事を見た時に日本民族が持つ浪漫・魂の根源が甦ってくるような気持ちを抱いた。タイムマシンにでも乗って、古代の日本に戻ったかのような気分であった事を思い出す。

あの「大嘗祭」の古式ゆかしき儀式こそは、我々日本民族が紛れもなく自然を慈しみ、自然と共に生きてきた民族であることの証(あかし)を見せてくれたのでした。

世界の多くの民族は、その国家の起源と成り立ちに関する<神話>を持っています。伊勢神宮は現代に悠然と構えて消えることのない、まさに壮大なる日本国誕生の息吹きを感じさせる所なのです。

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稲作農業と日本の伝統・文化について、続きで書かせてもらっています。よろしかったら続けてお読み下さい。

 

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Posted by the_radical_right at 11:05 │ mixiチェック │教育・日本人精神 

2006年01月04日

匿名投稿批判に反論する

     お笑い番組でも許せない「匿名投稿」への批判発言

昨夜、7時から放映されたバラエティー番組「太田光が総理になったら」という番組を見た。この手の番組を私は余り見ないが、やはりタイトルにひかれたからだろう。

この中でインターネットについて、これを免許制にしてはどうか、というフザケタ議論が行なわれていた。私が意外に思ったのはこの免許制にすべきだと真剣に主張しておられる人達がおいでであったことだ。

彼ら免許制に賛成する人達は、現在のインターネットにおける報道について問題視している。掲示板における書き込みが名誉毀損や人権侵害にあたり、それを防止する手段として、誰が書き込んだかを判別できるようにすべきだとの主張である。

彼らは掲示板で名誉を毀損されたり、人権侵害される事件が相次いでおり、もはや許せない状況であり、これを止めさせるには、そのような方式しかない、としている。

この問題は巨大掲示板2ちゃんねるにおいて幾度も論争されてきたことである。いわゆる匿名での投稿についてだが、インターネットの初期における頃から、この匿名ということについての批判はあった。

結論から先に申し上げれば、私はこの匿名について批判したことや否定的なことを言ったことは一度もない。ただし自分は最初から実名での投稿にこだわってきた。それは自分が曲がりなりにも活動家としてプロを自任している以上、それが相手と議論した時の最低の礼儀と思ってきたからです。

しかし、一般の人までそれを強要する必要は全くないと考える。その理由は一つしかない。それは自由に書くということは人間が持つ普遍的な権利であると考えるからです。

では、それでは何を書いても構わないのか?という議論があることも事実です。それに対しては名誉毀損や営業妨害などの刑法があり、それを適用すれば済むだけの話でしょう。今は昔と違いプロバイダーは捜査当局の協力要請があれば応じることになっており、犯行はすぐに露見することになっています。

このように書くと必ず、書かれてしまった後では名誉の回復は困難になってしまうと反論が出ます。つまり書かれた後では遅いと言うわけです。しかし、これは殆どのマスメディアに共通することで、そのようになれば何も書けないし、報道できないことになってしまいます。

実はこれを主張するのは一般市民の側ではなく、権力者でありそれを擁護するのが大手マスコミだという事が問題なのです。長々と書いてきましたが、この点に注目して欲しいという事を申し上げたかったわけです。

大手マスコミやその関係者、評論家などのマスコミ人は、かってインターネットは便所の落書きだとバカにしていました。匿名投稿は出所不明の怪文書のようなもので信頼に足らないものだと決め付けてきました。

我々はこのマスコミの態度を手厳しく批判してきました。告発文書の場合、名前を明かせない人もいます、しかし、だからと言ってそれが嘘であるとは言い切れません。それを調査してその真実を報道するのが報道機関としての役目なのです。

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ここまで読み進んだ人は更に続きを読んで下さい

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Posted by the_radical_right at 17:51 │ mixiチェック │ネット・ブログ 

開戦前夜・朝日新聞の今と昔

ed740507.jpg反日マスコミが主張する「開戦前夜」

 朝日新聞の正月の社説で一番興味をひかれたのは「まるで開戦前夜のような言葉が躍るインターネットや雑誌が溢れている」との箇所であった。このような情勢に朝日新聞社は危機感を抱いているという事を訴えてたかったのだろう。

 しかし、開戦前夜であろうが、なかろうが、世界中の国々が国益をかけて激しく衝突してきたのが、人類の歴史ではなかったのか?60年前祖国は世界最大の軍事国家である米国と戦った。敗れはしたが米国をして「二度と戦いたくない国」と言わしめた程、日本の兵士は勇敢に戦った。

 確かに戦後60年日本は平和の中で経済的な繁栄を謳歌してきたが、では一体この平和な社会を勝ち取り守るために、我々日本人がどれほどの努力をしてきたのか。自信を持って平和のために尽くしてきたと言える日本人は少ないだろう。

 左翼は口を開けば反戦平和をお題目のように唱えてきたが、それは旧ソ連や中共の手先となって、日本の赤化革命を引き起こすためにスローガンとして来ただけの方便に過ぎなかった。左翼が平和憲法を守ってきたから、日本が戦争にならなかった。そんな論法を信じる者は今の若者の中では少数派に過ぎない。

 日本が何故戦争と無縁で過ごせたかは、米ソ世界分割統治という情勢の中で、たまたま日本が米国の支配圏の中にあったからで、ヨーロッパ社会も東西に分割されたが、線引きがハッキリしていたので戦争にはならなかった。しかし米ソの世界分割線が曖昧な地域において紛争は行われてきた。

 冷戦崩壊後においては主に旧ソ連が支配していた地域において、戦争は勃発した。共産主義の頚木が外れ、これまで押さえ込まれていた民族が独立を求め蹶起したからである。パンドラの箱が開き、各民族が宗教勢力と結び、互いに憎悪して果てし無き戦争状態を引き起こした。しだいに沈静化したユーゴのような地域もあるが、チェチェンのように泥沼に陥っている所もある。

 では、今日朝日新聞社はどのような情勢分析として「開戦前夜に似ている」などと社説で煽ったのか?この社説を読んでいくと、まるで日本の国家主義や排外思想による中国批判が戦争の原因のような錯覚を持ってしまうから怖い。

 今、共産中国から軍事的な脅威や威嚇を受けているのは日本であり、日本側から相手国(中国)に脅威を与えるような行動や威嚇をしたことは一度もないはずだ。日本の領海に対する原子力潜水艦の侵犯事件、日本の領空侵入を試みるような演習に対するスクランブル警戒、日本の領海周辺における調査船の出没、いずれも中国から仕掛けられているものである。

 朝日新聞に問いたいのは、共産中国の人民解放軍がなぜこのような動きを見せているのかについてである。その原因と分析を試みて日本国民に警鐘を鳴らすのが、日本国の新聞社として当然の責務なのではないのか?

 さて半世紀以上前、朝日新聞社は日本の大東亜戦争突入へ向けて進軍ラッパを吹き鳴らしていた。

 『日本民族は如何なる民族精神を把握して、国外より来たらんとする怒涛を克服し、国内に勃発せんとする狂爛を征服して、光明の彼岸に到達せんとするのか。極東平和の維持は何よりも脅威されない充実した国防によって守られる』

 今、我々《極右》は同じ事を主張しているのに、それを批判する根拠とは何か。勇気を忘れた負け犬根性としか私には思えない。

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 これまでは主張を一方的に述べて来ましたが、今後は双方向性を追及して見たいと考えております。コメントにはなるべく時間の許す限り応じて行きますので、皆さんも遠慮なく書き込みをお願いします。春にはHP(世界戦略)もより充実させるように現在計画中です。
何か、良いアイデアのある方は教えて下さい。参考にしたいと思います。
  
Posted by the_radical_right at 06:52 │ mixiチェック │偏向報道・反日マスコミ