2005年07月26日

「平和な時代になぜ…」は世界とのズレを露呈

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【第2部】
 
 2番目に気になったのは「平和な時代になぜ…」という新聞の見出しであった。添乗員として死亡した娘さんの母上が「平和な時代になぜこんなことが…」と絶句して思わず涙した、との書き出しで始まる報道記事であったが、このタイトルこそが世界の常識と日本の非常識を現わすものではないか。
 娘さんを亡くされた親族には本当に気の毒ではあるが、現代は決して平和な時代などではない。日本のマスメディアが勝手に現代をそのように創り上げてしまった。
 冷戦が崩壊した時、マスコミは挙ってこれで人類が永年待ち望んできた恒久平和な時代がやって来たなどと散々書きたてた。
 しかし、我々は冷静に国際情勢を分析、このようなマスコミの論調を厳しく批判し、冷戦の崩壊は熱戦(ホット・オブ・ザ・ウォー)の時代の始まりであると強く主張した。
 これまで米ソの力によって押さえつけられたり、旧ソ連の中で抑圧されてきた真のナショナリズムが台頭する時代であり、一歩間違えば世界各地において民族紛争という名の戦争が勃発すると予想した。旧ユーゴ内戦や旧ソ連邦内の民族紛争によって、それはその後証明されることに。
 更に“国境なき時代”に突入し、各民族が混在するようになった今日、各民族間の紛争は従来の国と国の対決といったものから、一国の中において行われるものとなる。特に多民族国家の場合、その可能性は常に内在されており、何時噴出するか分からない恐怖に怯えながら暮らすことになる。
 確かに、ここ半世紀の日本は平和であった。しかし、これとて日本が主体的に創り出した平和では決してない。たまたま平和な時代が半世紀間も続いたというだけであって、これは世界の状況から見れば奇跡に等しいことであった。
 日本人は平和とか安全とかいったものは、願ってさえいれば叶えられると勝手に誤解しているようだ。平和、平和と空念仏のように唱えてさえいれば、平和な時代が続くなどと思っているのは本当におめでたい話だ。
 日本は平和であっても、一歩外に出てしまえば、そこは平和とは程遠い世界であることをもっと認識しなければならない。そのことを常に啓蒙するのが新聞社の使命であるべきなのに「平和な時代になぜ…」などというタイトルを掲げるこの不勉強さと言うか、世界観のなさには驚かされる。
 マスコミがこの種の事件の時に決まって掲げる暴力反対、テロ根絶のスローガンだが、それは何の解決にもならないということを肝に銘じるべきだ。死を覚悟し、それを恐れない人間を前にした時、言葉など何の意味も持たない。
 エジプトでの観光客襲撃事件に限らず、このようなテロ事件を考える上で重要なのは、その戦慄さや残酷さでは決してない筈だ。テロ事件を引き起こすグループの思想的背景や政治的な意味、それらを分析することによって、防止策を考えるべきであろう。
 この観光客襲撃の場合とは異なるが、日本人そのものが標的とされるテロ事件が発展途上国で発生することがある。日本側は現地の開発に役立つことを願っての援助をしているが、相手側は必ずしもそうは受け取らない。テロ事件というのは、起きてしまってからではもう手遅れなのである。だからこそ起きる前にその可能性を探り分析を進めなければいけない。
 この様な事件が起きる都度、考えさせられることだが、日本にはこのようなテロ事件の発生を予測し、その原因を分析する専門機関が存在しないという点だ。確かに外務省はそれなりの調査、分析はしていると思うが、どうも頼りにならない。
 観光客襲撃を起こしたイスラム原理主義一つを例にとっても、果たして外務省に彼らとパイプを持つ外交官がいるだろうか。
 そのような人物がいるとは思えない。かつてアフガニスタンでゲリラ側の一員として戦った日本人がおり、その人に伺った話だが、日本に帰国してきた時にマスコミや民間の調査機関から問い合わせはあったものの外務省の関係者は一人も来なかったと言う。
 一番生々しい情報を持っている人物であるから、本来ならばこのような人物にいち早く接触して然るべきなのに、全く接触がなかったというのだから呆れ果てるしかない。
 
(この記事は1997年11月のものである)
 
あれから約8年…イスラム過激派のテロは各地で勃発している。
 
  

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2005年07月25日

エジプトの爆弾テロ事件について。

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エジプトにおいて史上最悪の爆弾テロが発生した。外国人観光客を狙ったものではあるが、死者の大半はエジプト人である。
このような無差別テロ事件は今回が始めてではない。今から8年程前の1997年には日本人観光客も銃撃される事件が起きた。
その頃に私の書いた論文『イスラム原理主義過激派テロ事件の教訓!」
ー日本人にとっての最善の防止策とは?ーがあるので、三回連続で投稿させて頂きます。
 
1、狂信者であっても、精神異常者ではない。
2、「平和な時代になぜ・・・・」は世界とのズレを露呈
3、最善の再発防止策を考える。
の三部構成になります。
 
【第1部】狂信者であっても精神異常者ではない
 
 エジプト南部の観光地ルクソールで外国人観光客を狙ったテロ事件が発生。日本人を含む60人もの人が死亡した。犯人はイスラム過激派の武装グループでイスラム原理主義者と伝えられている。
 この事件の衝撃度は多数の死亡者もさることながら、一般観光客に対して問答無用とばかりに銃弾を浴びせる凄惨さと、命乞いをして跪く観光客に対して、頭にとどめの一発を撃つという残忍さにあった。
 だからこそ「怒りの感情を抑えられぬ」だとか「犯人らには人間性のかけらもない」と言った論調がマスメディアを走った。今回のテロ事件を正当化する如何なる理由も見当たらない。
 しかし、だからといってそのような感情論や常識論だけで今回の事件を見ていては、事件の本質を見失ってしまうのではないか。彼ら(犯人)は精神異常者ではない。彼らは狂信者であっても、精神病患者ではない。
 エジプトのムバラク大統領は9月中旬カイロでバスが襲撃され、ドイツ人観光客9人が殺害された時、精神障害者の単独犯行だと発表した。これは意図的に彼らの行動を過小評価することで影響が広がることを避けようとしたことは間違いない。
 しかし、その事が逆に今回の残虐な行動へとエスカレートしたとも考えられる。ここはどうしても、彼らの目的、その信奉するものを解明する努力がなされて当然だろう。彼らをこのような差別的殺戮に掻き立てるものは一体何か。そのことを解明せずしてテロの根絶などできよう筈もない。
 今回の事件を報道するマスコミ論調の中で二つだけ気になったものがある。一つには「イスラム原理主義者というのは残酷なことを平気でやる非人間的な、特別な人」とする見方だ。しかし、これほどの誤解はないと考える。
 何故ならば、このようなことは戦争状態の中ではしばしば行われてきたことだし、現実に旧ユーゴの内戦やアフリカなどでは日常的に見られるものだ。
 また、イスラム教徒だけを残虐だとするのも検討違いだ。キリスト教徒もかつて同様のことをしていたし、新しいところでは我が国における地下鉄サリン事件も無差別テロであった。
 何もイスラム原理主義者だから暴力的だとか、残忍なことを平気でやれるのではなく、およそ人間というのは、そのようなものであるという点を改めて再認識すべきである。
 「人間の心というものは何だって可能だ。何故ならば全ての未来に加え、全ての過去が人間の心の中に潜んでいるのだから」
 こう言ったのは英国の作家・コンラッドが書いた『闇の奥』という小説の中で、ヨーロッパ人の心の奥には空虚しかなく、狂信主義によって充足させられる恐れがあることを彼は指摘していた。
 船乗りであったコンラッドは人間の心の奥にある暗闇は、船の中と同じような厳しい階級と秩序、規律ある社会によってのみ危険を取り除くことが可能だと考えた。
 その後、ヨーロッパは第一次・第2次大戦、ファシズム・ナチズム、そして共産主義を生んだ。第2次大戦後も西独や英国のアイルランドにおいては無差別テロが相次いだ。これらはコンラッドが指摘したように、心の暗闇から噴出した衝動であった。だからこそ、一歩間違えば脆い社会に住む、心の空虚な人々の間に広まる可能性も持つのだ。
 1916年、英国が16人のアイルランドのテロリストを処刑した時、詩人のイエーツは「恐るべき美が生まれた」と書いた。処刑されたテロリスト達は「ナベに湯をたぎらそう」と言い遺して逝った。現在も事態はまったく変わっていない。西欧・中東・南米とテロリストの死を�狃浙記瓩箸靴董△修海法峩欧襪戮�美」を感じる人がたくさんいるからだ。こういう人達にとっては自らもまた「湯の煮えたぎるナベ」を作ることにのみ人生を駆り立てていく。コンラッドは無意味な狂気だと断じたが、狂気の行動とは意味があろうが、なかろうが、結果に関係なく行われるものである。
 いずれにしても、今回の銃撃テロは人間社会の根底に脈々と流れ続けている暴力的な飽くなき衝動と、その戦慄の行動を改めて想起させた。
(1997年11月)
 
  
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2005年07月24日

現代社会の病理、拝金思想を生み出している背景。

      拝金思想が蔓延る現代の日本社会
 
七夕の日にたまたま飾られた竹に結ばれた短冊を見た。
一人一人がそれぞれの思いを短い文にしたためていた。
居酒屋の客待ちの長椅子の前にそれはあった。
そこに座ればどうしてもその短冊が目に入ってしまう。
若い人達の様々な願い事が書かれてある。
読んで行くうちにとても嫌な気分になって読むのを止めてしまった。
短冊の三つに一つは「大金持ちになりたい。」とあった。
確かに貧乏よりは、お金持ちの方が良いだろう。
しかし、よりによってお金にこれほど執着する、この現代における拝金思想は何なのだろう。
 
旧き日本人は「成り金」を嘲笑うことはあっても、けっして貧乏人を馬鹿にすることはなかったし、その貧しさを分かち合うことによって国家がまとまっていた。
 
そこには隣人が新車を買えば我が家もといった、経済力を尺度にした見栄の張り合いもなかった。
貧しいが故に助け合う精神があったのだ。
多くの人々は貧しくはなくとも、それなりの生活を享受できている。
ある者だけが抜きん出て巨万の富を得ても、それが素晴らしいことと果たしてもろ手を挙げて賛同できることなのか?
これが外国との関係になれば、ある国が抜きん出て富める繁栄国となれば、その貿易黒字国になるには、そのことに対して犠牲となった国があると批判されてきたのだ。
この問題は国内においても同じであろう。例え運がよく人より努力して稼いで富裕となっても、それが人生の幸せとは言えない。
拝金思想に毒された現代社会において、青年が何をなすべきかを考えて欲しい。
 
青年は金儲けしか眼中にない大人に、軽蔑の言葉を浴びせることから始めるべきだ。
 
不法ではないが、不当にお金を得ているような輩を崇めてヒーローにしてはいけない。
 
マスメディアが作り出すお金儲け絶対主義は、マスコミが商業主義に立っているからだ。
資本主義は欲望と消費の制度であるから、彼らは人間の欲望を駆り立てて消費に走らせている。
このような悪しき流れに抗して生きるのも、日本人としての誇り高き道でもあるのだ。
 
 
 
 
 
  
Posted by the_radical_right at 23:02 │ mixiチェック │青年に告ぐ! 

2005年07月23日

極右とは何か〜 懐かしの2ちゃんねる大論争 (9 )

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      目指す国家観は新国家主義と国家社会主義経済
 
>田原さん、三郎さんへ
 
私の目指す政治体制は国家主義と経済は国家社会主義です。
この二つを総称して国家全体主義でも構いません。
先ほど賢者による独裁政治も利点があると述べましたが、しかしこれはあくまでも理想であって、終極的な目標です。
経済的には国家社会主義ですが、これを詳しく説明することは困難さもあります。とりあえずは漠然としたものとして捉えて欲しい。
資本主義の悪い部分を常に変えていく努力が必要です。
戦前、国家社会主義者はマルクス社会主義者とはまた違った意味で戦ってきました。
しかし、彼らは戦前の社会で全く不遇な時代を過ごさざる得ませんでした。
つまり全く理解されることなく来たという事です。
私は不遇の時代にあって理解されなかったことと、そのものが持つ価値とは関係ないと考えるものです。
そもそも経済とは国民の幸せのためにあるべきもので、一部の選ばれた者のためにあるのではない。
国家社会主義者の役割とは今日の資本主義に対して、常に反省と示唆を与え続けるものである。
つまり、資本主義の市場経済の行き過ぎに対する最終的な歯止めとしての役割です。
 
>三郎さんへ
 
民主主義を否定したり軽視する立場ではありません。現状における国家を運営する最良の手段として評価します。
しかし、将来もそうあるべきとは思いません。賢者のことですが、民主的手続きによって選ばれし人のことを指しています。
 
>三郎さんへ
 
私は国家主義者ですから、まずは国家ありきです。
三郎さんはこの国家が公共性の名の下に、自立した個人を押さえつけるような社会を嫌っているように感じました。
また目覚めた民衆による一層の政治への参加が、成熟した民主主義国家においては最善であるとの主張と思います。
さて、昨夜の続きですが、しからば国家とは何かということです。
その定義から入りたいと思います、互いの国家観はかなりの部分で違うでしょうが、三郎さんと相通ずる所があるかも知れません。
国家とそこにある国民との関係は一言ではいえないが、簡単に要約して短い文章で表すなら次のように私は定義します。
 
人間は一人では生きられない、集団を形成するものです。
集団は内部の平穏と秩序を保つ必要性から、権力の発生を必然としました。
それが長い歳月の経過と共に歴史的な存在としての共同体すなわち国家の誕生を見ました。
この国家に生まれた者は国家の一員となり、国家の一員として生きることを運命付けられます。
国家の基礎が堅固であり、国民の自覚が明確で、国家に対する忠誠が強い国家ほど、国家の集合体である国際社会において主要な地位を築くことが出来た。
また、これと正反対に国家に対する忠誠心が薄く、国家を蔑ろにした時、国家意識が希薄になった国家は衰退しやがて滅亡した。
 
             国家は「運命共同体」
 
>みなさんへ
 
この社会の中で一人で生きることは出来ない。誰もが人の助けによって生きている。社会から逃避した浮浪者であっても、残飯をすてる社会があってこそ生きていけるのでしょう。
この当たり前の社会の鉄則が我々は忘れかけているのではないか。
現代社会に欠けているものは「共同体意識」です。民族としての一体性も希薄になりかけています。
では何故こうなったかと言えば、それは個人主義への偏重と地域社会の崩壊が挙げられます。
民主主義は個人の人権を必要以上に大切にしてきました。
人類の普遍的な価値とされ、「共同体思想」はないがしろにされてきました。
 
※この辺りのことについてさらに興味のある方は、私のサイトに「現代の視点」をお読み下さい
 
 
 
 
 
 
  
Posted by the_radical_right at 07:40 │ mixiチェック │極右2ちゃんねる論争 

2005年07月22日

イスラムの脅威に警鐘を鳴らし続けてきました。

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今日世界中で起きているイスラム原理主義者の過激なテロリズムは、やがて日本においても起きるだろう。
私はこのことに十年も前から取り組み警鐘を鳴らしてきた。
 
インターネットの検索で、当時の主張が残されていたので紹介したい。
 
2ちゃんねるサイト「在日ムスリムの恫喝に屈するな」から。
 
 
165 名前: コピペ 投稿日: 2001/05/28(月) 07:51
瀬戸弘幸(世界戦略研究所)の掲示板から。
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富山県でパキスタン人などのイスラム教徒が数百人結集して気勢をあげたという報道は、その原因がどのようなものであったにせよ、ついに我が国にもそのような事が現実に起きたという点で、極めて注目すべき事件ではないだろうか。ヨーロッパではキリスト教社会になだれ込んだイスラム教徒との間における軋轢は、宗教戦争、民族紛争などの様相を呈しながら“新たなる内乱”の時代を想起させるまでになっている。
昨今の日本においても、石原都知事やめろ!ネットワークのデモ行進に、明らかにイスラム教徒と思われる一団が参加しており、遠からず彼等だけの大規模な行動が起きることを予感させていた。
サルマン・ラシディー原作の『悪魔の詩』を翻訳した、五十嵐一筑波大教授が惨殺された事件を我々は忘れてはいけない。
そこには一神教の世界における“憎悪”の哲学の根深さを垣間見らせ、無宗教の民と自他ともに認めてきた我々日本人も、もう蚊帳の外では有り得ないという現実に直面したのである。
急増を続ける外国人、とりわけ不法滞在者が公式でも30万人を越すという日本社会において、犯罪だけでなくこのような宗教問題も複雑な影を落とし始めてきた事に震撼する思いである。
 
186 名前: 瀬戸弘幸 投稿日: 2001/05/28(月) 15:46
 
私の主張が書き込みされているので、投稿させていただきます。
今回の事件で我々は先ず考えなければいけないことは、生まれも育ちも
文化も宗教も違う民族や人種が、一つの国家の中で混住していく事の難しさです。
よくマスコミや人権派団体、進歩的文化人と呼ばれる人達は、国際化の進む中で
外国人と仲良く暮らさなければいけない、といった主張を行っています。
しかし、それはそう容易いことではありません。かってイラン人が代々木公園で
毎週末に集まって日本人とトラブルが起きた時がありました。
私はこの時、「代々木公園を日本人の手に取り戻せと!」訴え、テレビなどでも発言させて
頂きましたが、マスコミは私を拝外主義者、人種差別主義者のレッテルを貼って、私と
私の仲間を悪者に仕立てました。我々の活動で代々木公園は閉鎖され、結果的にイラン人は
締め出されたわけですが、その真相は全く違ったものでした。
公園を管理する東京都にイラン人の締め出しを要請したのは、実は一般の日本人だったのです。
彼らの多数は『イラン人は怖い!』と感じ、彼らの追放を訴えたのです。
この多くの日本人が怖いと感じた、この事が果たして悪いことなのか?
私はそうは思わない、偏見や差別感情を持つべきでない事は確かだが、
感情を殺したり偽って生きる必要は何処のもないだろう。
なぜなら、ここは紛れもなく我々日本人の社会であるからです。

写真:当時代々木公園にたむろし始めたイラン人
 
  
Posted by the_radical_right at 08:10 │ mixiチェック │我々の闘いの軌跡