2005年08月23日
国家の衰退をもたらす経済の自由化と市場開放
「ほんの一握り」のアメリカンドリームの体現者の影に何千万人の絶望者が存在する。それでも米国は衰退しない。しかし日本は別だ、国家の瓦解は既に始まった。
「官から民へ」その標語だけが新聞、テレビなどのマスメディアを駆け巡っている。経済の国際化、より一層の市場の自由化、それらのスローガンも声高に叫ばれ、まるでこのままではその流れの中に一飲みされてしまいそうな勢いで迫りつつある。
自民党が郵政反対派の選挙区に擁立したのは外資系証券会社の女性重役であり、同じく外資系証券会社と結ぶことによって、巨額の資金を得て一躍時代の寵児となったライブドアの堀江社長。このような人達は現在の資本主義市場における所謂“勝ち組”であり、マスコミは彼らを時代を切り開く先駆者として持ち上げている。
多くの一般大衆はこのような“勝ち組”に対して羨望の眼差しで見つめている。あわよくば自らもそのような成功者となりたいという願望をマスコミは上手にくすぐる。しかし、これらの成功者は現代社会において、極めて少数であり、それは何百万の中の一人に過ぎない。
現在の日本の経済社会が米国をお手本として進んでいることは今や誰の目にも明らかだろう。では米国とはそれほどに立派な国家なのか?
外の世界から見る米国という社会は自由と平等と豊かな国に見えるが、その実情は人種差別と貧富の差が拡大する絶望と退廃の国に他ならない。
貧しい国を捨てて米国に流入はしたものの、袋小路の「出口なし」であったら、麻薬と暴力とセックスに溺れるしかないのが悲しいかな現実である。しかし、米国の白人社会にはそのような国家を変えていこうとする宗教的なルネッサンス運動が始まっている。
よって近い将来後戻りがなければ再び建国の精神を樹立して困難を克服しよう。つまり、「ほんの一握り」のアメリカン・ドリームの体現者の影には、何千万人もの絶望者が存在しているが、そのような経済的な絶望者に対して、新たなる希望を与えられる国家であることも事実なのです。
翻って日本はどうか?日本は見事なまでに町人と成り下がり、一億総国民がカネに目がくらみ、中でも度が過ぎる人達は意味もなくヘラヘラ愛想笑いしながら商道を語るのみである。
国内において貧富の差があっても、国家がそれなりの栄光と誇りを持つなら国民宥和の道を選択して団結する方途もある。しかし、日本のような場合、商人国家に成り下がり、その余りにものアキンドぶりに世界から顰蹙をかっているような国が、益々一部の富める者と大多数の貧しき者とに分離したら一体どうなってしまうのか。
公共性という言葉が片隅に追いやられ、利益追求だけが前面に出てくる社会の到来は、やがて国家の衰退をもたらす。堀江社長のような「僕の国家観は世界は一つ」(今朝の産経新聞)のような言動は、まさしく日本という国家の衰退を彼らなりに読み取ったからであろう。
我々<極右>は新国家主義を掲げる。個人の利益追求は、国家の枠組みの中でのみ許される。この鉄則を絶対の論理として掲げ国家の衰退阻止ために闘う。
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2005年08月22日
時代の変革期における既成政党と<極右>の相違点
変革期における政治・思想の哲学とは何か?
本当の意味での「非常時!」はこれからやって来る。
歴史の変革期に直面した祖国の命運の危機は、大袈裟に言えば今回の解散総選挙のドタバタに見ることができよう。まるで維新の往時を彷彿させるに似ている。
中世的な派閥力学の泥沼の安寧が破られ、かって開国か攘夷かで激しく揺れ動いた幕末期の再来にも見てとれる。小泉開国派は外資系証券会社の女性部長や外資系証券に転換社債を引き受けさせ、その資金で日本放送の乗っ取りを策したライブドアの堀江社長など、そのメンバーを見ても明らかに開国・開放派だ。
対して攘夷派は小林興起前議員の「郵政民営化は日本国民の大切な郵貯を外資に差し上げるものだ。」との主張の通り開国反対、鎖国攘夷派と言ったところか。
この戦いは現在のところ開国・開放派に有利に展開しているようだ。一般大衆は商業マスコミのタレ流すワイドショー的な番組に惑わされ、ことの本質から目を逸らされて踊らされてしまっている。
今日の事態を時代の寵児ともてはやされている堀江社長は「非常時だ!」と語った。確かに変革の激動は祖国の岸に押し寄せている。国家の命運を左右するものは、政治家の理念であり、精神であり、行動力である。
しかし、今その気概を感じさせる政党、政治家が果たしているのか?
変革とは容赦なく過去の政治・経済・文化・思想・宗教全ての体制そのものを突き崩すものでなくてはならない。
しかるに今提唱されている変革とは、利己的世界観の中にあって、変革の歴史的な使命とは関係なく、ただ議会で勝敗を争うに過ぎない。
このようなまやかしの変革騒動に組する訳にはいかないが、全く無関心を装うのも問題だろう。今一般大衆が「政治」に参加する道は、この選挙の機会くらいしか与えられていないからだ。
変革には興味があっても革命(維新)には怯える既成政党には我々<極右>は関心を持たない。「非常時」とは大衆社会の危機を指すのではなく、国家の危機的状況を指すのだ。私はまだその段階には至っていないと考える。
国家が危機に瀕した時こそ非常時であり、その時は国家の権威を解せぬ政治家は必要としない。外国からの脅威とは今問題となっているような経済開放の声などとは比べようもない筈だ。
外国からの脅威が現実のものとなった時、支配される危機に直面した時、その時は選挙など何の意味もないだろう。外国の武力的な脅威に直面した時、銃口から政権が生まれることを歓迎する。
この意思を今の時点で明確に表明することの出来る勢力こそ<極右>である。
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2005年08月21日
青年に告ぐ!戦後なる言葉を清算する戦いを始めよう!
<戦後>に死を宣告する新国家創造運動に起ち上がろう
マスメディアはあいも変わらずに<戦後>なる言葉をタレ流し続ける。そこには敗北から来る反省というという面にだけ力点が置かれてきた。
この論理の前提には、「もしこの反省を忘れてしまうと、日本には再びファシズムへの道を歩み出す勢力が台頭する」というのだ。
ならば私は問いたい、ならば<戦前=ファシズム>とはそれほどに悪の道なのかと。正確に言うならばわが国においては戦前=ファシズムではなかった。軍部独裁=ファシズムではないのだ。ファシズムとは大衆運動であり、日本においては戦前はファシズムは大きな勢力にはなり得なかった。
戦勝国は第二次世界大戦の勝利を世界に向けて宣言したが、それは次のような言葉によって発せられた。「我々はファシズムによって蹂躙されてきた国民を解放した。」
わが国は戦前ファシズムによって国民は蹂躙されており、戦勝国によって国民は解放された。このように戦勝国は考えて主張してきた。
<戦前>と<戦後>とはこのような論点によって分けられてきたことを先ず理解しなくてはならない。つまり戦前と戦後という歴史の断絶の中には、戦争における勝敗という物理的な事実は存在するが、その対立・戦争への概念とはあくまでも思想の対立が前提にあったと見るのが正しい歴史の見解である。
つまり、敗戦という物理的な事実の前に厳然と存在した、思想の対立こそ再び決着をつけなければならない問題なのである。
20世紀という時代を簡潔に総括するならば「社会主義と民族独立の世紀」と言えるでしょう。この社会主義には二つの社会主義があった。
一つはマルクスレーニンの左翼社会主義。もう一つは民族主義(ナショナル)を基盤とした国家社会主義。
前者はソビエトという史上初の社会主義国家を誕生させ、資本主義国家の英米と結び、民族社会主義国家(イタリア・ドイツ)を打ち破った。しかし、あっけないほどに滅亡してしまった。
一方後者について言えば、民族主義を基盤にした国家社会主義は第二次世界大戦によって完膚なきまでに叩き潰された。しかし、今ヨーロッパで再び<極右>は甦りつつある。
※<極右>とは戦前の国家主義とは全く同義語ではない、しかしその思想的後継者であることに違いはない。
わが国においても十年前、<極右>を名乗るものは、異端の右翼の道を選んだ我々ほんの少数者でしかなかった。過激な危険分子や排外主義者として批判され続けてきた。
しかし、今自らを<極右>と名乗る若者がいかに多いことか。ネット検索で<極右>と打ち込むとその数は膨大なものになる。
私は<極右>の連帯をこのネット上で呼びかけたい。
我々<極右>こそが、この戦後なる言葉を清算する唯一の勢力である。
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