2005年11月25日

青年に告ぐ!愛国者は悪党であってはならない。

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私はインターネット上ににおいて《極右》の言論活動を呼びかけている。《極右》政党や政治団体の結成を呼びかけるものではない。あくまでも《極右》的な心情を持つ多くの若者に呼びかけ、その連帯の輪が広がることを願うものである。

最近、《極右》とは何か?これまでの右翼と何が違うのか?と言った質問が寄せられることが多い。「貴殿のブログを見ていると、これまでの右翼や保守とは違う点は何となく分かるような気がするが、根源の所は同じなのでしょう。」という質問もあった。

そこで今日は《極右》の心情について述べさせて頂くことにしたい。

簡単に一言でいえば《極右》とは愛国の心情を持つ者(愛国者)であり、その愛国の心情を持つという点では、右翼も新右翼も新保守も違いはないだろうし、今日ネット右翼と呼ばれる人達も同じであると考えます。

※ネット右翼という言い方は蔑称なのか、それとも普通の一般語なのか、正直いってよく知らないので、意見を聞かせて欲しい。

違いをここで取り上げるよりも、愛国心そのものについて考えて見ることにしたい。

よく左翼の知識人は右翼、愛国者を批判する時に、18世紀に活躍したイギリスの思想家サムユエル・ジョンソンの著書の中にある次の有名な言葉を引用する。『愛国心は悪党の最後の隠れ場所』この言葉は今日でもしばしば引用され、愛国者(ナショナリスト)を批判する時に用いられてきた。

ジョンソンの時代はナショナリズムという言葉の概念はしっかりしたものではなかった。ただ言えることは、当時イギリスではオランダ、スペインに代わって七つの海を支配する世界の植民地化に乗り出した頃であった。

後に左翼が帝国主義の批判として、この愛国心と植民地主義を無理やり結びつけて拡大解釈されて一般化して行ったと考えられる。ジョンソンが「愛国心は悪党の隠れ場所」と表したのは、この点を指したのではなく、国内政治状況下において、自らを愛国者(パトリオット)と称した者を、たまたまジョンソンの目には悪党に見えたからであるとの説が正しいようだ。

ジョンソンは死んだが、この“迷言”だけが、何故か一人歩きして“名言”となってしまった。実はこの言葉を逆手にとって「愛国者はならず者」論を正当化しようとする者が多すぎる。

真の愛国者が“悪党”である筈がない。国家のために全霊を尽くそうと思うもののどこに“悪”があると言うのか?この点を履き違いているものがいる。自分たちだけが日の丸を掲げ、街宣車を乗り回しているからと言って愛国者を気取り、しかも、ならず者(乱暴者)であって許されると考えるのは自らの無能をさらけ出しているのと同然だ。

この「愛国心は悪党の最後の隠れ場所」という言葉にしても、愛国心そのものを悪と規定しているわけでなく、それを悪巧みの手段として使う連中を批判したものであることは言うまでもない。

近代世界史の中で西欧列強の植民地化に勇敢に戦い、第二次世界大戦の敗戦にも屈せず、祖国を再起させたのは、これは紛れもなく愛国者=戦前の右翼であった。

しかし、戦後の右翼は政府・財界の番犬と化し、ヤクザ者を後ろ盾にして、企業や自治体からの<金もらい右翼>に成り果てた。この右翼の動向に批判的な学生によって提唱されたのが<新右翼>運動であった。しかし、この運動もしだいにその熱気を失っていった。

次に表われたのが新保守派と呼ばれる人達であるが、彼らは愛国者ではあるが、右翼と呼ばれることを極端に嫌う。彼らは体制派であり、そこからの変革を目指しているに過ぎない。

では最後に《極右》について語ろう。《極右》思想は古くからあり全く新しいものではない。しかし、ある意味では国家の前衛と目指すものであるから、それは今時点では一番新しい政治思想とも言える。

我々《極右》は日本国民が誰しもが持っている愛国心を最も先鋭に表現する。右翼と呼ばれる人達が行なっているような愛国心の専有には反対である。《極右》は愛国の心情を持つ多くの若者に呼びかけ、やがては前衛的行動によって新国家創造運動の先頭に起つ使命感を抱いて闘い続ける。

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Posted by the_radical_right at 09:07 │ mixiチェック │青年に告ぐ! 

2005年11月24日

極右とは何か〜懐かしの2ちゃんねる大論争  (30)

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懐かしの2ちゃんねる大論争〜『文明の衝突』 その��

>匿名

>その時日本がそのいずれかを選択しなければならない、運命の時がやってくるというのだ。  (ハンティントン教授)

この点について中矢伸一氏の著書より抜粋して紹介します。

日本はアメリカやヨーロッパのような西側文明圏でもなく、かといって中国や東南アジア、イスラム諸国にも属さない特殊な国である。日本は世界の歴史の中でも珍しい「一国一文明」の文化圏が確立されている。

西欧対非西欧という未曾有の対決の構図の中で、日本のみが埒外にあって、経済力と成熟した文明をもって存在することは、不幸中の幸いであったかも知れないとハンティントン教授は述べている。

そして、日本の取るべき選択とは、アメリカの庇護から離れて「一国一文明」としての自らの特殊性と役割を自覚し、自立して、孤高なる「日本文明」を掲げて、皆から尊厳される文化・文明に磨きをかけ、国際社会の中でかけがえのない第三勢力、すなわち「地球規模の調停者」として生きていく道を模索するのが最善の策ではないだろうか、と問いかけているのである。

>瀬戸

ハンティントン教授は「日本文明」という言葉を使うが、そもそも日本に確固たる文明が存在することを、日本人自身が自覚できていないという悲劇がある。現代の学者やインテリ層、マスコミなどは、日本が世界史的に見ても極めて珍しい、悠遠な歴史や文化(日本独自の文明)を有する国であることを認めたがらない風潮があります。

これは戦後一貫して左翼日教組が行なってきた徹底した「自虐史観」の植え付けが功を奏しているところに原因があるようです。結果そのプログラム通りに、今の若者たちは日本や日本人であることに「誇り」を失い、「根無し草」となり、自分さえよければという「個人主義」に走ってしまうようです。

「公」の中での「個」という大切な関係を見失って迷走している。我々日本人が、世界でも稀な「一国一文明」としての役割と自覚を持つには、どうしてもこの「自虐史観」からの脱却は不可欠のように思います。

>名前・私は 投稿日・2000・2・18

ハンティントンは世界に9つの文明があって、イデオロギーや経済よりも文明が原動力になってこれからの世界は動くと言っています。韓国は中国文明で、タイやチベットは仏教文明です。しかし、日本は日本だけで独自の文明を持つ唯一の国家だとハンティントンは言っています。冷戦終了後、日本でもナショナリズムが盛んになっているのも、ハンティントンの文明の衝突の時代の一つの流れと見ています。

ハンティントンの『文明の衝突』論は現代世界を理解するうえでの道しるべだと思います。彼の本は、米中戦争で日本が選択を迫られるところで終わります。まだ、読んでいなかったら、ぜひお読みください。また現代についてあふれんばかりの生々しい情報が入っています。英語人口が減りつつあるとか。ユーゴの分析とか。

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Posted by the_radical_right at 14:10 │ mixiチェック │極右2ちゃんねる論争 

2005年11月23日

我々の『純正憲法改正試論』

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 自由民主党の『立党50年記念大会』での演説で小泉純一郎首相は「平和のうちに世界の変化に対応できる改革をしなければならない。これが政権政党である我々の責務である」と述べたが、これほどまでに日本国の行く末を暗示し、国民に危機意識の共有を問うた演説を我々は他に知らない。

 日本側の状況に関係なく、北朝鮮がミサイル一発でも射ち込んでくれば否応なく戦争は始まってしまうだろう。
 ミサイル一撃で天下泰平の世が、即戦時体制になることを誰もが分かっていながら先制攻撃に踏み切れないでいる。

「平和のうちに―」「世界の変化に対応できる―」
 国際テロとの戦いの一環として我が国の�犒蛎皚瓩�インド洋およびイラクに展開するに際し、特例的な時限立法の下、他国の軍隊に護られながら活動する様は主権国家として尋常な姿・形ではない。

 数年前―、北朝鮮の独裁者・金正日の長男が我が国への不法入国で摘発された時、誰もが��正体不明の外国人�瓩寮蟻里鯤�かっていながら日本国政府として公式には認められぬ事態に歯痒さを感じたはずだ。
 同様に、自衛隊が明らかに軍隊の体を成しながらも日本国家の軍隊として容認されぬ現状に誰もが不安と不満を募らせている。
 国家が国家としての体を成していないが故に、起こり得る現実に偽りの仮面を被せてきたのがこの半世紀間であり、国家はそのための便宜上のものとして存在してきたのが実情ではなかったか―。
 然るに現行憲法の施行から半世紀以上を経て、日米同盟を基軸とした安全保障体制の下、我が国に課せられた国際的責務と国際社会から寄せられた期待は大きく、現実逃避することは許されなくなった。
 今やらねばならない―、間に合うかさえも分からない―、しかし、それでもやらねば、なお間に合わない。
 ここに我々の『純正憲法改正試論』を発表させて頂こう。

第一章 序説
 ここ数年、憲法改正の気運が高まっている。政府の憲法解釈に限界を感じ、最早改憲は避けがたいものであると考える人々が増加しつつある。
 我が国の存立確保と発展のため、時代の要請に応じた改憲が行なわれることは、もとより当然である。むしろ、昭和21年の制定以来、内外の情勢の絶え間ない変化にも拘らず、『日本国憲法』を金科玉条として不毛の神学論争を続けてきたことの方が異常だったと言えよう。
 そもそも、昨今にわかに巻き起こった改憲気運は、我々日本人が長い間信じ込まされてきた国連絶対主義の幻想の崩壊に伴なう、現実への引き戻しによってもたらされた、一種の覚醒の所産である。それ自体は、国民の正当な責務への目覚めであって、大いに歓迎すべきことである。しかし、その根底に存在する本質的問題に目を向けるとき、我々はこの気運を無条件に受け容れることはできない。
 なぜなら、昨今の改憲論議の中心は正に第9条の問題をどうするべきかという点にこそあり、しかもそれが単に自らを米国の世界戦略に合致させるためのご都合主義に基づいているからだ。
 憲法は国の最高法規である。そして、それは純粋に我が国の存立を発展のために制定されるべきものである。したがって、『日本国憲法』の改正は、まずこのことを確実に踏まえた上で、世界の安全を指向する「崇高な理想」に基づいて行なわなければならない。いやしくも、欺瞞と恥辱に紛れた戦後政治の誤謬(ごびゅう=間違い、誤り)を糊塗し、あまつさえ第2の占領憲法制定への道を突き進むようなことがあってはならないのである。
 このような観点から、私は巷間の誤まれる改憲論の蔓延を深く憂慮し、ここに純正なる憲法改正のための一考察を試みることにした。(つづく)

                『極右評論社』加盟 皇道翼衛軍 記

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Posted by the_radical_right at 20:34 │ mixiチェック │9条・国軍