2005年11月27日
人類は地球と共存できるか。
21世紀に人類と地球は共存できるか。その��
地球とは循環と再生を繰り返して生存する惑星である。大気、水、地(土)、生物によって構成され、相互に循環を行い、バランスを保ちながら結びついている単一の生命体である。
地球という惑星は単に生命に満ち溢れているだけでなく、それ自体が一個の有機体として生きており、生命体としての特有の現象を全て兼ね備えている。
生命の特有な現象の一つに例えば恒常性がある。どんな生命の機構も目的はただ一つしかない生命を、一定に保つという目的で動いている。
今世紀に入り、その生命体を一定に保つという自然の機構に亀裂が入り、生態系のバランスを崩し生命体としての維持が困難になっている。
人間文明が発展途上においては、自然の再生力を妨げることなく、人類は自然と共存できた。人間の経済活動が活発になるに連れて、その活動によって生ずる様々な現象、資源採取・人口爆発・エネルギー消費による大気汚染・経済成長に伴う産業廃棄物の増大、酸性雨や地球温暖化などにより、自然界が耐えうる負荷の限界を超える事になり、その結果地球的規模で自然環境は悪化の一途を辿りつつある。
46億年にわたって作り上げられ、保たれたきた地球のバランスは、この半世紀で大きく崩される危機に立ち至っている。人間文明がこの地球に危機をもたらした最大の原因は、人間が物質的な欲望を満たすことにのみ執着したことにある。
根本的には人間の心を失ったエゴイズムや物質的な考え方にその源があったといえよう。物質的な豊かさのみを追い求め、足りる事をしらない浪費社会によって、汚染と破壊がもたらされ、すべての価値の根源が生命にあり、かつ生命を育んできた自然にあることを忘れ去ってしまったのだ。
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※共産中国がアムール川に「有害物質を数年間投棄」していたとロシアが批判、中国がこれを認め謝罪したとのニュースを見て、平成5年に『環境経済新聞』に寄稿した「21世紀に人類と地球は共存できるのか」を紹介することにしました。
2005年11月26日
我々の『純正憲法改正試論』��
それでは次に『日本国憲法』(以下、現憲法とする)へ目を向けてみよう。現憲法は、『大日本国憲法』(以下、帝国憲法とする)第73条に基づく改正憲法であるという体裁をとっている。しかし、この憲法が手続き上、帝国憲法の改正憲法であるということと、両者の法的連続性とは直結しないのであって、所謂「八月革命説」のように、手続きの如何を問わず日本の敗戦によって全く新しい憲法が制定されたのだとする有力説がある。事実、両者の間には憲法上の大きなギャップがあり、それを連続したものとして認識することは確かに容易ではない。
では何故現憲法は帝国憲法の改正憲法の体裁をとらねばならなかったのであろうか。このことが、現憲法の本質にかかわる重要なポイントなのである。というのも、我が国は大東亜戦争終結に際して、ポツダム宣言を受託し、これによって「新秩序が建設さられ、且つ日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証ある迄」(ポツダム宣言第7条)連合国軍によって占領されることになり、その占領目的達成の一手段として帝国憲法の改正が利用されたものだからである。
この現憲法制定の経緯は既に多くの者の手によって検証されているが、その多くは現憲法肯定の立場から、その憲法的問題点を軽視するきらいがある。しかしながら、国際法上(ヘーグ陸戦条約)禁止されているはずの被占領国の憲法変更をGHQが強行することによって生じた憲法上の問題は軽視されて良いものではない。
当時、我が国の主権は連合国の手によって制限されており、日本国民自らが憲法を制定する権力を完全に掌握していなかったばかりか、その憲法制定のため政治的決定は全てGHQの影響下においてなされ、その手続上の不備を隠蔽するために日本国政府に強圧を加え、現憲法の改正憲法として成立せしめた事実を鑑みる時、現憲法の実体は我が国独自の純粋な憲法たる完全性・至高性を備えているとは言い難い。
従って、その条文がどのように規定されていようとも、我が国の憲法実体には主体的政治決定がなされていないため、常に主体性なき形で「解釈改憲」を繰り返さざるを得ない宿命を背負っていることは間違いない(これこそが、戦後60年間の現憲法の歩みであり、またこの憲法が「押し付け憲法」「占領憲法」とされる所以でもある)。この恐るべき事実を無視して、現憲法を「平和憲法」であるとし、日本国民自ら創り上げた「民定憲法」だとして、「護憲」こそ絶対不変の正義だと我々は教え込まれ、信じ込まされてきたのだ。だが、我が国はあの大戦でポツダム宣言を受諾して以来、今日至る迄、少なくとも憲法的には全く独立していないのである。本来、サンフランシスコ対日講和条約によって主権を恢復した時点で、我が国は自らの手で憲法を制定(改正)すべきであった。それが実現されなかったことは、まさに民族の一大痛恨事であり、当時の為政者に対し大いなる義憤を覚えざるを得ない。
とまれ、とは言うものの現憲法の実体の方は第9条の関連だけでも過去大きく分けて3回変化した。1回目は朝鮮戦争の勃発の時である。日本を反共の防波堤たらしめる必要性から、米国はそれまでの弱体化政策を改め、同時に警察予備隊の創設を命じ、再軍備させた。2回目は日本の主権回復に際して日米安保条約が締結された時である。この
時、我が国は独立国として必要な自存自衛の軍備を米軍の手に委ねた。そして、3回目は米ソの冷戦構造が消滅した時である。この時から、各地の復興支援や後方支援など海外での国際協力活動を要請されるようになった。
これらは何れも我が国の憲法実体が伴わぬがゆえに、同盟国の政治的決定を用いてしか変化させ得なかったのだが、その都度、我が国の政府は「解釈改憲」を以てこれに臨み、この重大な憲法の変遷に柔軟かつ着実に対応してきた。しかしながら、これが憲法実体と憲法条文の著しい乖離を惹起せしめ、憲法問題は神学論争的な誠に奇妙な状況に陥ってしまうこととなった。そして、第9条の問題に限らず、現憲法は様々な問題においてその欠陥を露呈する結果となったのである。
昨今の改憲論議は言うなればその延長線上に現われたものである。戦後60年、憲法の実体に対する国民的怠慢から、この瑕疵ないし欠陥を放置し続けてきた当然の帰結として、憲法条文の改変を余儀なくされているに過ぎない。けれども、それは本末転倒である。国の最高法規たる憲法が同盟国の政治的決定によってしか「解釈改憲」されず、それを追認するために憲法条文を改変するのではなく、我々は断固とした姿勢を示す必要があると確信し、ここに主体的憲法の改正試論を表明するものである。(つづく)
極右評論・皇道翼衛軍
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2005年11月25日
我々の『純正憲法改正試論』��
憲法とは何か?
何よりも初めに我々はこのことを考えなければならない。何となれば、我々はややもすると成文憲法に示された文字の羅列のみを憲法であると考え、その条文の解釈を以って総てことが足りると思い込む傾向があるからだ。しかし、憲法とは単に成文化された一法典のみを示すのではなく、その背後に泰然と存する“憲法の実体”というべき法規範全体を含む概念であることを十分に理解しなければならない。
例えば、『日本国憲法』はその第98条に、自ら「国の最高法規」であると規定するが、この最高法規性はこの条文に規定されて初めてその性質が生じるのではなく、正に“憲法の実体”の至高なるが故に、それを成文化した『日本国憲法』が国の最高法規性を帯びるのである。
このように、本来憲法の条文に示されるものは、総てその憲法実体に由来するものでなければならない。即ち、憲法実体が憲法条文に先立って存在するという事実が、この際重要な意味を持つのである。このことは、成文憲法を持つことなくして強固な憲法実体を維持している英
国の例を見れば容易に理解することが出来よう。実のところ、我が国の憲法問題の紛糾は専らこの憲法実体を憲法条文との齟齬から発生していると言うべきなのであるが、問題はここにいう憲法実体が何によって形成されるかということである。
一国の憲法は、その最高法規性から、他の一切の法令をそれに従属せしめる。ここに憲法の憲法たる所以が存するのであるが、それ故に、その本質は強制力であり、その力は国家の始動的権力(主権)に由来する。そして、この主権を掌握する者(憲法制定権力)が一定の政治的
決定を下し、その政治的決定によって形成される法規範が憲法実体である。つまり、国家主権の掌握者―憲法制定権力―の政治的決定に基づいて形成された法規範が実体的憲法であり、それを憲法という名の法典として成文化したものが我々の目にする成文憲法なのである。
このように考えてゆくと、憲法の問題を考える場合、その条文に示される諸規範が、どのような政治的決定に基づくものなのか、またその憲法制定権力が正当かつ完全なものなのかという憲法実体に関する考察が重大な意味を持つことが明らかになろう。
したがって、憲法改正もその意味するところが憲法実体と憲法条文の乖離を更正するための単なる条文の変更を示すのか、それとも憲法実体の変更を伴う憲法全体の改正を示しているのか、ということを明確に捉えることが肝要である。そして、我々の憲法改正は『日本国憲法』制定にまつわる政治的混乱に起因する様々な憲法の瑕疵・欠陥を是正し、更には我が国の存立確保と発展を強固にするために必要な新たな政治的決定を反映する全面的かつ革新的な改正でなければならない。
極右評論者・皇道翼衛軍
