2006年06月05日

天安門事件 その2 「民主化を暴動」として鎮圧

9ec5cba2.jpeg天安門事件から17年��

 「天安門事件」発生から17年目を迎えた昨日の天安門広場では、公安警察の厳重な監視・警戒体制が敷かれ、反体制派は完全に閉め出された。

「事件の大虐殺は非人道的な暴行だ。当時��小平主導で定めた事件の評価を覆す必要がある」

 事件で亡くなった学生の母親、丁子霖・元中国人民大学教授(69)をはじめとする犠牲者の家族ら126人は5月29日、米国人権団体『中国人権』を通じて書簡を公表していた。

 香港ではこの事件が発生した時には100万人もの民衆が外に出て抗議のデモを行なったが、今年の追悼集会は静かなものだったらしい。やはり17年も経てば事件が風化してしまうのはやむを得ないのかも知れない。

 この「天安門事件」の発生後に、国内においては特に教育現場において「反日教育」が徹底して行われるようになった。地に堕ちた中国共産党の権威を回復するためには、どこかをターゲットにしなければならない。
 そのためには日本は絶好の餌食であった。中国共産党は日本を侵略者に仕立てあげ、その侵略から祖国を救ったというのが、中国共産党の立場であり、それを強調することにおいて、自らの正当化を図ろうとしている。

 戦時でもないのに自国民を大虐殺するような国家から「加害者」として断罪される理由などない。この事件は日本側から見れば、対中国コンプレックスが払拭される格好の機会であった。

 しかし、日本側はこの格好の機会を生かすことが出来ずに来てしまった。まさに世界に冠たる政治音痴のなせる技ではないか。なぜ、日本はこの問題を大きく取り上げて糾弾しなかったのか。

 人民を虐殺し、「暴動」と開き直り、犯人探しに密告を勧めるような犯罪的国家に対して、いち早く「協力」すべく中国に帰任して行ったのは日本の企業だった。

 中国側の当時の李鵬首相は「困ったときの友人こそ本当の友人」などと日本企業を持ち上げたが、それは中国側の恫喝に怯える定見なき商売人の姿にしか我々には見えなかった。

 対中経済協力になぜに日本企業は血道をあげるのか―、疑問に思う人も少なくない。
 中共には対外貿易で輸出すべき産品も少なければ支払う外貨も無きに等しいのだ。
 いくら十数億の人口を擁する市場であるといっても商売の相手になるような国ではないし、加えて独裁国家としてのリスクもある。
 過去に何度となく商談や契約の一方的破棄という苦い経験を積んでいるのに、なぜに中共から日本企業は撤退しないのか。
 その真相もこの事件で暴露されたのだ。
 狙いは日本政府から中共に向けた政府開発援助(ODA)による大プロジェクトの受注にあったのだ。
 日本企業は中共の経済協力など初めから問題にしていなかったのである。
 日本政府から様々な名目で中共が脅し取ったカネを目当に企業が進出していったわけで、商売とすればこれ程リスクの少ない話もないであろう。
 言わば日本の経済界は中共の主張する「被害者論」に巧みに同調することで自民党に圧力をかけ、国庫から賠償金まがいのカネを出させて、自社企業に利益として還元させていたのだ。
 そう考えれば「中国批判は慎重に」という経済界トップの発言も合点がいくのである。
 天安門広場の痛ましい流血によって「軍が国を左右する」中共の実態と、「財界が国を左右する」日本の実態が明らかになったのだけは事実であろう。

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Posted by the_radical_right at 16:37 │ mixiチェック

2006年06月04日

天安門事件 その1 「民主化を暴動」として鎮圧

6f0dbb6c.jpeg天安門事件から17年��

 1989年6月4日、天安門広場は流血の日曜日となった。「自由化」を求めて座り込んだ学生に対して、中国共産党・人民解放軍は戦車を突っ込ませ学生を轢き殺した。戦慄するこの事態を日本の著名な左翼学者は「偉大なる歴史的実験」と呼んだ。左翼マルクス主義者には血も涙もない、彼らに共通する認識だ。

 あれから17年目を迎えた―。中国共産党が戦車で踏み潰した「自由」と「民主主義」は「歴史的実験」が成功したためか、今もって中国にはその影すらもない。

 当時、我々はこの天安門事件をどのように論評していたのか―。平成元年6月15日に発行された「世界戦略」第40号を紹介することにします。

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 全世界を震撼させたこの事件の背景と真相を探るには、現時点では余りにも情報が錯綜しているのが現状である。だが、誤解を覚悟であえて「実験」として捉えるならば、実に多くの事を、流血を代償に我々に教えてくれたと言えよう。

 それは「解放政策」という厚化粧の下から老醜の素肌が覗いたようであり、伏魔殿の扉が開け放たれたようでもある。つまり中共という国家の内実が身も蓋もなく露呈されたことに他ならないのだ。

 一つは「経済的には資本主義」で「政治的には社会主義」という��小平路線の矛盾が学生デモによって明白になってしまった。社会主義思想とは元来が経済理論から派生したものである以上、��小平の考えを推し進めれば、行くつき先は社会主義思想の廃棄となるのは理の当然であった。

 座り込んだ学生らは人民には銃を向けないとの解放軍神話を信じていたのみならず、自らの行為が「近代化路線」に則った国是の徹底を要求するものと認識していたからこそ弾圧など思いもよらなかったのだろう。

 その学生をキャタピラで踏み潰すという暴挙に出たのは、中国共産党首脳が海外世論を敵にまわしても、そうせざるを得ないところまで追い詰められたからであり、その危機感とは、すなわち「近代化路線」のペテンが発覚する事を恐れたからに他ならない。

 学生デモ隊の要求は中共の現実に即しても正当であったがために、血をもって徹底的に弾圧されなければならなかったのである。そしてこの事件はもう一つの事実を改めて全世界に認識させた。

 中共は国家主席や総書記、首相よりも「中国軍事委員会主席」の方が実権を握っているという紛れもない軍事独裁国家であることが内外に示されたのである。正確に言うならば、前記のどのポストであろうと軍を掌握すれば、形式上の肩書きと権限を超えて国家が意のままになるということだ。

 国会や政府、党などは人民解放軍の前には、何の力もないことが一連の事件でかくも明白になってしまった。この有り様は軍閥が各地に割拠して覇を競っていた半世紀前と全く同じであり、まるで三国志の世界である。

 そのような国に「軍国主義の復活」だのと内政干渉されていたのだから、わが国もとんだ被害者ではないか。

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 現在も中共は天安門事件とは「反革命暴動」としている。民主化要求を「暴動」としてしか捉えることができない―、このような共産主義者に未来はない!我々《極右》は何年かかろうが、共産主義者がこの地上から消え去る日まで闘い続ける!

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Posted by the_radical_right at 18:52 │ mixiチェック │特定アジア(中国・軍拡) 

白虎隊と三国同盟

7f8d0abd.jpeg写真:日独伊三国同盟締結後にローマより贈られた古石柱

白虎隊と三国同盟

悲劇を乗越えた武士道精神

 先のアフリカ訪問で「野口英世賞」の創設を発表した小泉純一郎首相は野口英世の郷里である福島県会津を昨日訪れ、野口英世会館でそれを報告した。また小泉首相は日本武士道の象徴として世界的に知られる飯盛山の白虎隊士の墓にお参りした。

 新聞は一行も報じていないが、この飯盛山には第二次世界大戦で日本の同盟国であったイタリアのムッソリーニ首相とナチス外交官から贈られた記念碑が建っている。

 墓参りする時には誰の目にも止まるものだ。小泉首相もその碑のことについては十分知ってはいたが、さすが聞く事は出来なかったし、案内した会津市長などもそれを説明することは遠慮したと思う。

 世界広しと言えど、ファシスト党の紋章やナチスのシンボルであるハーケンクロイツが刻まれた碑を見ることが出来るのは、この場所をおいて存在しないだろう。なぜ、その碑が今日見ることができるのか?それこそが世界に誇れる日本武士道精神と言っても良いだろう。

 映画『バルトの楽園』でも描かれているが、ドイツ兵は会津藩士の子息である松江豊寿大佐(ドイツ兵俘虜収容所所長)のその武士道精神に感動して、ベートーベンの「第九」を演奏した。後にこのドイツ兵達は、祖国に戻り日本の武士道精神は世界で一番素晴らしいと絶賛した。

 会津藩士は戊辰戦争で賊軍の汚名を着せられ、塗炭の苦しみの中で新しい日本の夜明けを迎えた。賊軍となったが天皇と国家を思うその気持ちは誰にも負けないというその自負心は、やがて会津武士道精神として残った。

 戊辰戦争によって屈辱的な処罰と少年隊士の自決、更には女性らの自害も232人にも上った。会津人はこの悲劇を乗り越え、大正、昭和の時代には名誉と権利を回復した。

 1928年にイタリアのムッソリーニ首相から白虎隊記念碑が贈られ、白虎隊士墓前広場に建立された。また1935年には元駐日ドイツ大使館政治担当外交官エッツドルフ氏より頌徳碑が寄贈された。

 日本の敗戦によって全国の神社にあった楠正成公の銅像などが次々に共産主義者によって叩き壊されていった。このイタリア、ドイツから贈られた記念碑も壊されることを懸念した会津人は、密かにこれを持ち出し隠したのである。

 米国占領軍がこの碑の存在に気付き接収に動いたが、この碑の在りかはようとして分からなかった。そして、ほとぼりが覚めた昭和28年に、また元の場所に建てられたのである。

 また、この説とは別に米軍が削りとった碑面を復元したというのもあるが、これは信じられない。削り取るなら壊していたはずだ。この真相を知るべく私は長年に渡って会津を尋ね歩いたが、ついにこの真相を語る人と巡り会うことはなかった。

 しかし、イタリアとドイツから贈られた記念碑を、命懸けで守り通した会津人のその魂には頭が下がる。三国軍事同盟の遺跡が世界でただ一つだけ残った会津白虎隊士の墓前広場、そこに私は歴史の悲劇を乗り越えて来た会津藩士・会津人の精神を見る―。

会津武士道精神=武士道に卑怯はない。武士には武士の情がある。

 会津白虎隊士の墓前に建つイタリアとドイツから贈られた記念碑は、我々日本《極右》の誇りであり聖地でもある。

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Posted by the_radical_right at 14:31 │ mixiチェック │教育・日本人精神