自民総裁選スタート その��
「憲法・教育」改革は「国家論争」でもある。
今回の自民党総裁選において安倍晋三官房長官は憲法の改正と教育改革の必要性を訴えています。安倍氏だけでなく麻生太郎外相も「改正に向けた国民的論議」を政権構想に掲げています。
二人とも同じように改憲への強い意欲を示しているが、微妙な違いも出ている。麻生氏は「自主憲法」の制定としているのに対して、安倍氏は「新憲法」制定と称している。
我々右翼・民族派の立場からすれば、麻生氏の「自主憲法」制定の方が、何となくしっくり来る。分かりやすいと言えば分かりやすい。現憲法は日本の敗戦によって、米国から押し付けられたという憲法観がある。
対して「新憲法」制定となると、どうもその辺りが曖昧になってしまう。ただ安倍氏も思いは麻生氏と同じだが、総理になることが確実であり原則的な部分に触れることを敢えて避けているのかも知れません。
さて、憲法・教育問題にしても、これに反対している共産党、社民党、公明党、民主党の一部との最大の違いは、何と言ってもそれは『国家観』の違いであると思います。
日本という国家をどのように見るのか?それによって憲法を改正と見るか、改悪と見るのか。そのことがはっきりと見えてきます。それは戦前と戦後の『国家観』にもある意味で通ずるものであります。
「国家」を論じる時に、国家と民族という観点をより重視する立場の人と、それとは逆に軽視ないしは否定して国民或いは市民という観点をより重視する人に分けられる。
冷戦崩壊後、左翼イデオロギーによって封印されてきた連合国家においては、血族的な民族のつながり、そこに生まれ育ったという自然との関わりにおいて、血と土を重視した戦いが起きた。
幻想の国家ユーゴ連邦においては、より民族の実体を求めた真の「民族国家」への回帰が展開されました。この「民族国家」こそ、国家とは何かを考える上における重視すべき点であると思います。
対してこの「民族国家」に反対する人達は、地球市民などと言って民族という概念を否定してしまう。国家の基本はあくまでも日本民族ではなく、市民とか国民ということになる。
戦前の『国家観』とは日本民族の運命共同体としての「国家論」であった。しかし、これに対して反対する人達の『国家観」は、現在の日本国憲法の規範的な価値に日本国民は従うべきであるとする「国家論」である。
自民党総裁選挙が終了すれば、この二つの『国家観』と「国家論」が真正面からぶっかることになる。我々右翼・民族派は「民族国家」としての『国家観』や「国家論」を余り語りかけてこなかった。
対して、左翼や「反日宗教団体」は、「国民国家論」や「市民国家論」をさんざん語ってきた。我々はこの思想戦争に勝利しなければならない。先ず「内なる敵」に勝ってこそ外敵の脅威に打ち勝つ事が出来るのです。
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