2006年02月15日

辻元清美先生と反日新聞社が説く矛盾

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辻元清美先生、小泉首相に靖国参拝で

「ムハンマド風刺漫画抗議行動のように、国際問題になる」

 靖国神社への公式参拝にあたり、小泉首相は次のような談話を発表しています。
「わが国の悔恨の歴史を虚心に受け止め、戦争犠牲者の方々すべてに対し、深い反省とともに、謹んで哀悼の意をささげたいと思います」

「私は、二度とわが国が戦争への道を歩むことがあってはならないと考えています。私は、あの困難な時代に祖国の未来を信じて戦陣に散っていった方々の御霊(みたま)の前で、今日の日本の平和と繁栄が、その尊い犠牲の上に築かれていることにあらためて思いをいたし、年ごとに平和への誓いを新たにしてまいりました。私は、このような私の信念を十分説明すれば、わが国民や近隣諸国の方々にも必ず理解を得られるものと考えてきました」

 この首相の言葉はそのまま小泉純一郎という人間の『心の中にある』ものだ。ところが、『心の自由』ですむのなら、と題して朝日新聞は14日に「靖国問題の迷路」としてこれを取り上げた。

 その記事の内容は、「国家の解体を目指す政治家」と自称する社民党の辻元清美議員の国会質問を援護したものになっている。

小泉首相は靖国参拝への批判を「心の問題」だと突っぱねてきた。辻元氏は切り込んだ。「総理是非『心の問題』の迷路から抜けていただけないか」
第一「心の自由」はみなにあるが、それを行動に移した時に責任が生じる。靖国参拝は首相個人の問題とは別次元の話になっている。

迷路から抜けていただけないですか?とは、まさしく“迷言”である。世迷言と言い直しても良いだろう。因みに世迷言とは自分の思うようにならない場合の愚痴とか他人を罵って使う言葉の意味でもある。

 迷路に踏み込んでしまったと思っているのは、辻元先生と朝日新聞社の方であって、小泉首相のこの問題に対する姿勢は一貫している。ただ、何度も同じことを訊く偏向新聞社にあきれ果て、「心の問題」として突っぱねているだけである。

個人の問題とは別次元の話というのは、共産中国と韓国からの批判を指すのであろう。

第二として辻元氏は次のように質問している。「民族対立、歴史的な恩讐といった国際紛争の原因は、要は心の問題だ。価値観の対立の問題だ。心と心のぶつかりあいにいかに折り合いをつけていくかが「政治の役割」だ。日中、日韓の両国民の「心のぶつかりあい」でそれをどう解きほぐしていくかという観点に、首相の関心は向かない。

 要するに辻元氏と朝日新聞社は戦争や国際紛争など「心の問題」だとおっしゃりたいらしい。「心が通い合えば戦争はなくなる」とでも言いたいのだろう。であるならば、その方法は明示されているのか?もし我が国だけへの一方的な譲歩を求めるものならば、それは互いに「心が通じ合う」とは言えないだろう。

 私もこの質問をテレビの映像で見ていたが、いつから辻元先生はこんなセンチメンタルな乙女に変身してしまったのか?
 かつては勇ましく「拉致被害者救出よりも北朝鮮への賠償が先だ」などと語っていたのに、まるで最初は別人のような質問だった。

 しかし、最後の方になるとイスラム教預言者ムハンマドの風刺画掲載に対する激しい抗議行動を 引き合いに「心の問題を軽く扱うと大きな国際問題になる」と甲高い声で追及し、 参拝中止を求めた。

 ところで毎日新聞は11日にムハンマド風刺画の最後に、このようなことを書いていた。
「誰も反対し得ない「表現の自由」を楯に転載を続ける欧州メディアとこれを許容する世論。非寛容が国際政治の構造を変えるという点で「心の問題」を掲げた靖国神社参拝で悪化する日中関係と通底するものがある」(グローバル・アイ:風刺画の波紋、非寛容が変える国際秩序)

 朝日新聞も負けてはいない、次のように書いている。
「信仰上の、思想上の真実をそれぞれが貫き通そうとすれば、争いはいつまでも終らない。比べようのないものを比べようとする限り、人々は迷路の中をさまよい続けることになる。心や価値の問題は棚上げして比較的可能な利益の次元に、対立を絞り込む。政治的な共存はそういうやりかたで、常に暫定的に実現されるほかない」

 長くなるのでそろそろまとめに入ろう。辻元先生と反日マスコミはことある事に、小泉首相の靖国参拝を止めさせて、中韓の主張に日本を従わせようと必死である。そうとでも考えなければ西欧の風刺画と絡めてこんな議論が起きるわけがない。

信仰を重視する立場から言えば、イスラム教徒と小泉首相には共通点がある。その反対に政治的主張を重視するなら欧米メディアと中韓は重なる。大きな国際問題になると心配して、その責任を頑迷に靖国参拝にこだわる小泉首相にあるとの指摘であれば、辻元先生や反日マスコミはムハンマド風刺画で暴徒化したイスラム社会にこそ問題があるとしなくてはならない。

 しかし、毎日新聞社の記事は明らかに欧州メディアとそれを許容する世論を非寛容と批判している。そして、その非寛容さが小泉首相の「心の問題」と通底していると批判する。もう論理構成が支離滅裂ではないか。

 この非寛容とする言葉は、これまで移民反対、不法就労外国人追放を訴える我々《極右》に人権派と左翼が投げつけてきたものだ。寛容の精神とは彼ら反日勢力のお題目でもある。

現在欧州で問われているのは、果して欧州はイスラム移民と折り合えるのか、である。
今、東アジアで問われているのは、理不尽な中韓の主張に屈するのか、跳ね返すのか、の二者択一の選択である。この二つの難しい問題を調子良く結びつけようと思うから、矛盾したことを平気で口にして、書いてしまうのである。

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故三田和夫・読売OB記者魂

渡辺恒夫「読売新聞社」と三田和夫「正論新聞社」

 昨日、投稿した読売新聞社会長・渡辺恒夫氏の英霊を冒涜した発言は、本当に許せないもので、何故あのような発言をするのか?その真意を聞いてみたいものだ。こう書くと渡辺氏がそのように以前から思ってきたことを、素直にその心情を吐露したのではないか、との指摘も出るでしょう。

 もし、そうであるなら、私は渡辺氏の人間としてのこれまでの人生について問いたい。渡辺氏は戦後右翼のフィクサーと云われた故児玉誉士夫氏や中曽根康弘元首相らとの親密交際を重ねて、読売新聞社の会長の座にまで上りつめた御仁である。

 児玉誉士夫や中曽根康弘両氏との交遊において、もし渡辺氏がそのような考えを心の中に持ちながらいたとすれば、それは自らの心を偽りながら媚びていたとしか思われない。

 もし、そうだとすれば自らの出世と保身のために政治家や右翼を利用してのし上がって来た者が、今になって「日本の右翼は…」云々は、片腹痛い。まさに滑稽そのもので笑止千万と言わねばならない。

 今日は同じ読売新聞社出身ながら、権力に頑固なまでに背を向け、記者魂を最後まで忘れなかった愛国者・故三田和夫先生の話を書いてみたい。この三田和夫先生の名前を知る人は世間ではあまりいないだろう。

 しかし、ジャーナリズムの世界では三田先生を知らない人はモグリと言われたほどの大物であり、三田先生が主筆を務めた『正論新聞』は政財界の御偉方にとっては、とても怖い存在だった。

 ネットで検索すると、まだ生前、お書きになっていた文章が残っていました。

「80歳の現役記者!」が独自の観点で世相を衝く!http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8868/

 この中に経歴が紹介されています。

大正10年6月11日、盛岡市に生まれる。
府立五中を経て、昭和18年日大芸術科を卒業。
読売新聞社入社。同年11月から昭和22年11月まで兵役のため休職。
その間、2年間に及ぶシベリアでの強制労働を体験。
復員後、読売新聞社会部に復職。
法務省、国会、警視庁、通産・農林省の各記者クラブ詰めを経て最高裁司法記者クラブのキャップとなる。
昭和33年、横井英樹殺害未遂事件を社会部司法記者クラブ詰め主任として取材しながら、
大スクープの仕掛け人として失敗。犯人隠避容疑で逮捕され退社。
昭和42年、元旦号をもって正論新聞を創刊。
昭和44年、株式会社「正論新聞社」を設立。
田中角栄、小佐野賢治、児玉誉士夫、河井検事など一連のキャンペーンを展開。現在に至る。

 渡辺恒夫氏のような戦争体験もほとんどなかった人間とは違う。シベリア抑留も経験して共産主義の恐ろしさを身に染みて経験していた人でした。また、政財界のフィクサーの田中、小佐野は勿論、右翼や検察にも挑戦した稀代のジャーナリストだった。

 私が先生とお会いしたのは、私がまだ27歳の時でした。公務員生活をやめ、新聞記者として生活を立てようとしていた当時の私に、「超一級の事件記者がいるから紹介してやる」と当時、福島民友新聞社(親会社が読売新聞社)の社員に連れられ東京でお会いしたのが最初であった。

 私は三田先生から新聞の書き方、作り方を教えられ、地元福島に戻ってミニコミ紙の発行を始めました。その後、東北の中心地・仙台、そして東京へと舞台を移しながら記者として生活をしてきました。

 私は三田先生の持つ強烈な個性を自分では受け継いできたつもりです。「言論報国・破邪顕正」の精神です。「事件記者」として活躍したい―、それが自分の夢でもあったのです。

 三田先生は3年ほど前に亡くなられました。ある雑誌は「告別式もなく悪名だけを残した」と書きましたが、それこそ先生の本望だったでしょう。権力には絶対に媚びることなく、自分の信念を貫き通した、その素晴らしい人生に私は今でも感動を覚えます。

 同じ読売新聞社の記者として二人の人生は余りにも違い過ぎる。しかし、三田先生は読売新聞社の外にあっても、読売を愛し続けていた。人生の明暗はどこにその尺度があるのか、私などには分からない。

 しかし、私は死の直前まで記者魂を捨てなかった三田先生を心から慕ってきた。いつもジャーナリスト達が集まる『無名会』で、挨拶すると「元気か!」と声をかけてくれました。

 今日は全く私的な文章になってしまいました。読売新聞社の渡辺会長の発言に憤りを感じましたが、また自分に目をかけてくれた読売新聞社が生んだ「偉大な鬼才」を皆様方にも知って欲しいと思い書きました。

 最後に三田先生の生前の文章から次のような言葉を見つけました。ご紹介しておきます。

天皇陛下のために生命を捧げて神国日本を護ろうといったことも、つい先ごろのようでもあり、もうずいぶんと昔のことのようでもある。 三田和夫

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2006年02月14日

共産主義「耐性」の限界

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共産主義体制「耐性」の限界

 共産主義を人類にとって最も厄介な病原菌とするなら、自由という薬が如何なる効果をもたらし、それに共産主義病原菌の「耐性」がいつまで持つのかが注目されるところだ。共産主義体制を維持する上で必須の条件とも言えるものが、情報の統制と言論の監視である。

 この二つがコントロールされている限りにおいて、この共産主義という病原菌が消滅することはない。どのような薬にもそれなりの抗体を持って生存できる。しかし、この「耐性」が失われた時に脆くも崩れ去ってしまう。

 この私達が生きている社会は、日々平穏に見えても常に危い均衡の上に成り立っている事を、嫌でも教えてくれたのが、共産主義国家群の瓦解であった。自由と平等な社会とは人間が目指す理想社会であろう。しかし、不思議にも不自由で不平等な社会が、人間の理想郷として存在していたのだから笑えない冗談でもあった。

 あれほどの「収容所・国家」が自壊する様を見ることが出来ようとは、正直言って予想もし得ないことだった。どのような強大な権力であっても、それは権(かり)の力である限り、限界もあるし失う時もやってくるのだ。

 前書きが余りにも長くなり過ぎました。昨日の『反中国講座�ァ戮涼罎如�現在中国においては「義和団事件」の歴史認識について、共産党指導部と言論人の間で深刻な対立が起きていると書きました。この問題で週刊誌としては高い人気を集めていた「氷点週刊」が共産党によって弾圧され廃刊に追い込まれました。

 排外運動から北京の占領につながった1900年の義和団事件を現在の共産党政府は学校の教科書には中国人民の叛乱として肯定的に記述させています。これに対して「氷点週刊」は広州大学のユアン教授の批判的な論文を掲載し紹介した。ユアン教授は現在中国の中学校で使われている歴史教科書には「思想的な偏りや事実誤認があり、生徒に偏見や敵意を植え付けかねない」と批判していた。

 これに対して共産党は「報道規制を著しく逸脱し、国民の愛国心を大きく傷つけ社会的にも悪影響を与えた」と批難した。ユアン教授は「義和団事件」を中国の現代化に重要な役割を果たしているという、これまでの定説を「破壊分子」に過ぎなかったとしてこの認識を改めるように主張した。

 中国には侵略された原因は全て西欧列強の帝国主義や日本軍国主義にあり、侵略された中国の側には全く責任はないとの立場を崩してはいない。しかし、このユアン教授の論文は「中国が侵略され脅かされたのは事実だが、それを口実に自国の欠点や行動を正当化することは出来ない」と書いている。

 このような「自虐史観」は共産党指導部にとっては受け入れ難いものであり、認めるわけにはいかなかった。外敵から中国を救ったというその理論的根拠の正当性に疑問符がつきかねない要素を含むからである。

 中国人民は何も悪くはなかった、一方的に侵略された被害者である。中国共産党は侵略者に立ち向かった正義の党である。これが独裁政治を正当化する唯一の根拠であるからこそ、彼らはそれ以外の「歴史観」を葬り去ったのである。

 しかし、ここに来て経済の急速な成長とインターネットの普及は、共産主義体制を揺さぶり始めた。この病原菌がどこまで持ちこたえることができるのか?中国共産党はネットの統制強化にも乗り出し、「違法」と認定した76サイトを閉鎖に追い込んだ。
 自由への「耐性」に対処できるのか?全世界が注目している。

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Posted by the_radical_right at 20:06 │ mixiチェック │反中国講座 

『老獪さと醜悪』 読売・渡辺恒夫

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     老獪と醜悪

何故に英霊冒涜なのか?

 読売新聞社の渡辺恒雄会長がニューヨークタイムス社の取材に応じ、次のように述べた。

「日本の右翼は現在、特攻隊を天皇のための自発的な殉教者として称賛する。しかし、特攻隊員が『天皇陛下万歳!』と叫んで勇敢に喜んで行ったというのは全てうそだ」

―
と怒りを込めて言う。そして、
「彼らは、屠殺場の羊だった。誰もがよろめいていた。何人かは立ち上がることさえできず、運ばれて、機関兵達により無理矢理に飛行機に押し込まれた」

 この発言が多くの右系ブログや2ちゃんねるサイトで取り上げられている。私もこの老獪な渡辺の英霊に対する罵詈雑言を取り上げないわけにはいかない。私には84歳の父と80歳の母がいる、父母からこの発言とは全く異なる戦争体験を聞いて育ったからだ。

 この老獪はまるで見てきたような嘘を平気でしゃべりまくっている。なぜ、見てきたような嘘と断言できるかと言えば、彼の経歴がそれを証明している。
「1945年、東京帝国大学文学部に入学。同年7月に陸軍砲兵連隊に入営するも、終戦の2日前に除隊」
 
この経歴を見れば、彼が特別攻撃隊を送り出した航空母艦にいた形跡は全くない。にも拘らず、この老獪はこのような話をインタビューで受け答えしている。

 聞いた話であるならば、誰に聞いたかを先ず明らかにすべきだろう。その上での話であるならまだ分かる。しかし、実際に目にしてもいないことを平気で話しするその神経が信じられない。

 私の父は航空母艦に乗って多くの特攻隊員を送り出してきた。このような話は先ず聞いたことがない。父の話はこちらに掲載してあります。   http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/50514299.html

 老獪は「特攻隊員が『天皇陛下万歳!』と叫んで勇敢に喜んで行ったというのは全てうそだ」と語るが、私は自分の父の言葉を信じる。また、靖国神社で刊行した遺稿集の中に特攻隊員が書いた手紙がたくさんある。その中には「喜んでお国の為に参ります。父母へ」と書かれた手紙は数え切れないほどある。

 母はこの老獪と同じ歳の生まれで現在80歳である。農作業の辛い毎日の中で身体を壊し、現在は一日おきに透析に通う毎日であるが、戦争のことを思い出しては絵に描いている。15歳過ぎには八王子の軍需工場に来て、爆弾製造を行なっていたそうだ。米軍の爆撃機に突っ込もうとして撃ち落とされた日本の飛行機を何度も見たという。

 母達は本土決戦を覚悟したという。竹槍を持って訓練し、一人でも多くの米兵を殺してやろうと皆で誓い合ったそうだ。硫黄島玉砕、沖縄決戦の中で米国は日本人の精神を見た。だからこそ原子爆弾の投下を決断するに至ったのである。
 女・子供までもが命がけで祖国を守ろうとしていた時に、青年の多くが果して命を惜しんだであろうか?あろうはずがないだろう。

 我々は耳を澄まして静かに英霊の慟哭を聞こうではないか。

 もう、何も言うまい。この老獪が何を考えての発言だったのか?考えるほどに虚しさを覚えるからだ。

慟哭が聞こえる
 …英霊はすすり泣く、現在の繁栄とは一体何なのだ。自分たちの戦いはどれ程の意味があったのだ。今生活している人はそれぞれに意味を見い出してはいよう。
 誰しもが生きていて良かったと思うに違いない。そう考えているのなら<我等>のすすり泣く声に耳を傾けよ。古代からの武士道の勇敢さを<我等>は一度足りて忘れたことがない。それを誇りに見守ってきたのだ。

 英霊の痛みを共に感じて、その大義のために生きようと志す者がいても不思議ではない。若く純真な気持ちを持つ者であれば、それは強烈に心の中に刻み込まれるはずだ。

 今回のこの驚くべき醜悪な発言に惑わされてはならない。英霊の声に応えて我々は前に進もう。それが祖国を思い散って行った英霊への我々の責務である。

 かつて我々の先輩は進んで戦争に志願し、自らの尊い生命を国家に捧げた。それを今に継ぐ義勇奉公の戦いを我々は始めようではないか。それが狂気と呼ばれようが己の信念を国家に捧げようではないか!

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Posted by the_radical_right at 08:05 │ mixiチェック │偏向報道・反日マスコミ 

2006年02月13日

「大日本順民」と日本軍を歓迎した北京市民

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「反中国講座」��

義和団事件で日本軍を歓迎した北京市民

 共産中国が日本の「侵略行為」という最大の根拠というか、分かり易い説明が日本軍が支那大陸で中国軍と戦ったという事実だろう。中国にしてみれば戦場が支那大陸であったわけだから、日本が侵略してきたという説明は一見分かり易い。よって日本でもそれを受け入れてしまう人もいる。

 先ずこの日本軍の支那大陸進駐が何故起きたのか?
 そのことについて述べておきます。日本軍が最初に支那大陸に進駐したのは明治33年の「義和団事件」が発端となりました。義和団事件とはおよそ次のようなものでした。

「中国,清朝末期におこった外国排斥運動。北清事変ともいう。列強勢力やキリスト教の進出に反感をもった民衆は,宗教結社の義和団に入って鉄道や教会をおそった。運動は山東(シャントン)省からおこって北京(ペキン)にもおよび,1900年には外国公使館を包囲した。清朝は義和団を支持して,各国に宣戦を布告。日本など8か国は連合軍を送って北京を占領し,1901年清朝を屈伏させて,巨額の賠償金や外国軍隊の駐屯権をとり,中国の半植民地化をすすめた。」

※この義和団事件の騒擾に乗じてロシアは満州を占領した。

 居留民保護と治安回復を目的として英・仏・米・露・独・伊・墺と日本の8カ国からなる連合軍が北京に出兵しました。これを侵略の始まりと言うなら、日本だけでないことは明らかで、この8カ国全てを侵略国として批判しなくては筋が通りません。

 義和団は鎮圧されましたが、この時の日本軍は上は司令官から下は一兵卒に至るまで秩序が維持され、他国のような略奪騒動は全くなかった。ひたすら治安の回復に努めたので、北京市民は「大日本順民」と書かれた紙や布切れで歓迎した。「大日本順民」とは「大日本に順(したがう)市民」という意味である。

 戦前の日本の正式名称は「大日本帝国」であり、「大日本順民」となったのである。現在、共産中国が組織する官製反日デモで掲げられるのは「小日本」という垂れ幕だが、時の流れとはこうも変わるものなのだと考えさせられる。

 また、この義和団事件鎮圧後、清国政府は日本軍に進駐軍の最高司令官に就任することを要請している。もし漢人が日本軍を歓迎しなかったら、これらのことは説明できないでしょう。現在、この義和団事件を巡って中国内部で歴史論争が起きているとも聞きます。

 ところでフジテレビに出演した安倍晋三官房長官は中国による小泉首相の靖国参拝批判について次のように述べました。

「アメリカには信仰の自由がある。アーリントン墓地には義和団事件で亡くなった海兵隊兵士も眠っている。それは中国にとっては不愉快かもしれない。しかし、アメリカは自国のために戦った兵士を手厚く遇している。信仰の自由、良心の自由を大切にしている」

 この発言は「諸君!」2月号の大特集『もし中国にああ言われたらこう言い返せ』の中の、新田均・皇學館大学教授の論文「(中国に)『A級戦犯を祀る靖国に首相・閣僚が参拝するのはケシカラン』と言われたら」を意識しての発言だった。

「中国民主活動家の相林氏によれば『胡錦濤や江沢民も訪米したら花輪を持ってアーリントンに行く』(本誌平成17年7月号)といいます。これが本当だとすれば、この行為は中国人民の感情を傷つけなかったのでしょうか。なぜなら、アーリントンの無名戦士の墓には朝鮮戦争の戦没者も眠っているからです。朝鮮戦争は、中国側の解釈では、アメリカの侵略に対する反撃だったはずです。その侵略の手先が眠る墓に何故中国の指導者は詣でることができたのでしょうか。何故、問題にならなかったのでしょうか。寡聞にして私は、アメリカが朝鮮戦争を自国の侵略と認めて謝罪したという話を知りません。」

 共産中国最高指導者自らが義和団事件で死亡した米軍兵士が眠るアーリントン墓地に献花するくらいだから、義和団事件を契機として日本軍が駐留した件は、間違っても「侵略行為」などではないだろう。

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Posted by the_radical_right at 17:26 │ mixiチェック │反中国講座