渡辺恒夫「読売新聞社」と三田和夫「正論新聞社」
昨日、投稿した読売新聞社会長・渡辺恒夫氏の英霊を冒涜した発言は、本当に許せないもので、何故あのような発言をするのか?その真意を聞いてみたいものだ。こう書くと渡辺氏がそのように以前から思ってきたことを、素直にその心情を吐露したのではないか、との指摘も出るでしょう。
もし、そうであるなら、私は渡辺氏の人間としてのこれまでの人生について問いたい。渡辺氏は戦後右翼のフィクサーと云われた故児玉誉士夫氏や中曽根康弘元首相らとの親密交際を重ねて、読売新聞社の会長の座にまで上りつめた御仁である。
児玉誉士夫や中曽根康弘両氏との交遊において、もし渡辺氏がそのような考えを心の中に持ちながらいたとすれば、それは自らの心を偽りながら媚びていたとしか思われない。
もし、そうだとすれば自らの出世と保身のために政治家や右翼を利用してのし上がって来た者が、今になって「日本の右翼は…」云々は、片腹痛い。まさに滑稽そのもので笑止千万と言わねばならない。
今日は同じ読売新聞社出身ながら、権力に頑固なまでに背を向け、記者魂を最後まで忘れなかった愛国者・故三田和夫先生の話を書いてみたい。この三田和夫先生の名前を知る人は世間ではあまりいないだろう。
しかし、ジャーナリズムの世界では三田先生を知らない人はモグリと言われたほどの大物であり、三田先生が主筆を務めた『正論新聞』は政財界の御偉方にとっては、とても怖い存在だった。
ネットで検索すると、まだ生前、お書きになっていた文章が残っていました。
「80歳の現役記者!」が独自の観点で世相を衝く!http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8868/
この中に経歴が紹介されています。
大正10年6月11日、盛岡市に生まれる。
府立五中を経て、昭和18年日大芸術科を卒業。
読売新聞社入社。同年11月から昭和22年11月まで兵役のため休職。
その間、2年間に及ぶシベリアでの強制労働を体験。
復員後、読売新聞社会部に復職。
法務省、国会、警視庁、通産・農林省の各記者クラブ詰めを経て最高裁司法記者クラブのキャップとなる。
昭和33年、横井英樹殺害未遂事件を社会部司法記者クラブ詰め主任として取材しながら、大スクープの仕掛け人として失敗。犯人隠避容疑で逮捕され退社。
昭和42年、元旦号をもって正論新聞を創刊。
昭和44年、株式会社「正論新聞社」を設立。
田中角栄、小佐野賢治、児玉誉士夫、河井検事など一連のキャンペーンを展開。現在に至る。
渡辺恒夫氏のような戦争体験もほとんどなかった人間とは違う。シベリア抑留も経験して共産主義の恐ろしさを身に染みて経験していた人でした。また、政財界のフィクサーの田中、小佐野は勿論、右翼や検察にも挑戦した稀代のジャーナリストだった。
私が先生とお会いしたのは、私がまだ27歳の時でした。公務員生活をやめ、新聞記者として生活を立てようとしていた当時の私に、「超一級の事件記者がいるから紹介してやる」と当時、福島民友新聞社(親会社が読売新聞社)の社員に連れられ東京でお会いしたのが最初であった。
私は三田先生から新聞の書き方、作り方を教えられ、地元福島に戻ってミニコミ紙の発行を始めました。その後、東北の中心地・仙台、そして東京へと舞台を移しながら記者として生活をしてきました。
私は三田先生の持つ強烈な個性を自分では受け継いできたつもりです。「言論報国・破邪顕正」の精神です。「事件記者」として活躍したい―、それが自分の夢でもあったのです。
三田先生は3年ほど前に亡くなられました。ある雑誌は「告別式もなく悪名だけを残した」と書きましたが、それこそ先生の本望だったでしょう。権力には絶対に媚びることなく、自分の信念を貫き通した、その素晴らしい人生に私は今でも感動を覚えます。
同じ読売新聞社の記者として二人の人生は余りにも違い過ぎる。しかし、三田先生は読売新聞社の外にあっても、読売を愛し続けていた。人生の明暗はどこにその尺度があるのか、私などには分からない。
しかし、私は死の直前まで記者魂を捨てなかった三田先生を心から慕ってきた。いつもジャーナリスト達が集まる『無名会』で、挨拶すると「元気か!」と声をかけてくれました。
今日は全く私的な文章になってしまいました。読売新聞社の渡辺会長の発言に憤りを感じましたが、また自分に目をかけてくれた読売新聞社が生んだ「偉大な鬼才」を皆様方にも知って欲しいと思い書きました。
最後に三田先生の生前の文章から次のような言葉を見つけました。ご紹介しておきます。
天皇陛下のために生命を捧げて神国日本を護ろうといったことも、つい先ごろのようでもあり、もうずいぶんと昔のことのようでもある。 三田和夫
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