2005年11月18日

右翼逮捕で思った革マル派の終焉

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公安警察のデッチ上げを叫ぶのに、被害届(捜査協力)は矛盾ではないのか?

警視庁公安部は17日、<極左>の革共同・革マル派の車輌を破損させた疑いで、右翼団体員13人を逮捕した。(産経新聞)この事件は今年5月3日の憲法記念日に起きた。

先ずこの事件に対する革マル派の公式サイトに掲載されてある「改憲阻止を訴える全学連の行動に国家権力が仕組んだ襲撃を糾弾する」を見て頂きたい。


『5月3日、「憲法記念日」のこの日、有楽町マリオン前において、憲法改悪に反対する街頭情宣にとりくんでいたわが全学連と革共同革マル派の情宣隊にたいして、乱闘服で身を固めた反共右翼約20団体50〜60名が襲撃してきた。この襲撃事件は、警視庁公安部公安第二課、丸の内警察署、第一機動隊、反共右翼の四者が綿密に仕組んだ作戦にもとづいてひき起こした謀略的な破壊攻撃にほかならない。国家権力は、改憲の大濁流に抗して唯一改憲阻止の闘いを革命的に推進しているわが全学連と革共同革マル派にたいする憎悪をむきだしにし、右翼をファシスト突撃隊として、白昼公然と衆人環視のもとで改憲反対運動を破壊するという画歴史的な攻撃をうちおろしてきたのだ』

更に詳しく知りたい方はアドレスを紹介しよう。http://www.jrcl.org/

何故この問題を今回取り上げたかといえば、今回の事件が反体制<極左>の終焉を意味する出来事であったからだ。

この事件を革マルは右翼と公安警察が仕組んだ攻撃だと主張してきた。しかし、今回右翼団体員が逮捕されたのは、革マルが国家権力に被害届を提出したという事に他ならない。仮に被害届けは出さなかったにしても、捜査協力は絶対していると思もう、それ以外には考えにくいのだ。

確かに被害届を受けなくとも警察官が逮捕することはできる。しかし、このような場合は現行犯逮捕であり、警察官の目の前で事件が発生した場合、警察官は即座に逮捕することも可能だ。

この事件において、事件発生以来半年を経過してから、関係者が逮捕されたということは、革マル派が公安警察の調べに協力した結果として、逮捕状が執行されたと見るのが妥当だろう。

『わが全学連と革共同革マル派は、今回国家権力と右翼とが一体となって仕掛けてきた謀略的な破壊攻撃にたいして断固として反撃するものである』

この革マル派の言ってきた反撃の手段が、公安警察への被害届出があったなら、これほど笑える話は最近ではめったにお目にかかることなど出来ない。

革マル派のナンバー2と称されてきたダラ幹ことJR労組の松崎明は既に権力と一体となって、自らの保身に奔走している有様である。この松崎明に対して、死刑執行を宣言した同じく<極左>の中核派も内部崩壊の状況に襲われている。

今回の事件は戦後史における<極左>運動の終焉を象徴する事件として記憶に留めたい。

このブログでこの記事を取り上げるにあたって、私には忘れられない記憶がある。1975年11月26日から12月3日まで全国の公務員がストライキ権を求めてストに突入した。国鉄の国労と動労もストに参加したので全国で列車はストップした。利用者が怒って暴動一歩手前となり、労組も慌ててストライキを止めた。

この時、「鬼の動労」と言われたのが革マル派の松崎明動労委員長であった。山形県米沢市はこの動労の東北のストライキの拠点となった。当時私は23歳であったが、この米沢の動労の拠点に仲間と共に殴り込みをかけ私は逮捕された。

すぐ釈放されたが、略式起訴され罰金刑を受けて、前歴者リストに記載されてしまったのである。国家権力の転覆を叫ぶ<極左>はこの時は被害届を出さなかった。代わりに被害届を出したのは日本国鉄道であった。この当時の<極左>にはまだ反権力思想があった。

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Posted by the_radical_right at 10:12 │ mixiチェック │市民団体・極左動向 

2005年11月17日

「日米同盟」で中韓の策謀に立ち向かえ!

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京都の迎賓館で米国のブッシュ大統領との会談に臨んだ小泉首相は「日米関係が緊密になるほど中国や韓国、国際社会と良好な関係を築ける」と述べた。

この言葉こそ、これまで小泉首相や我が国に言いがかりをつけてきた共産中国や韓国、北朝鮮に対する明確なメッセージとなった。今朝の産経新聞紙上においても岡崎久彦先生が「なかなかの見識だ、なまじっかな学者には持てない洞察力。」とこの言葉を高く評価している。

時同じ頃、ソウルを訪問していた共産中国の最高指導者、湖錦濤国家主席は、青瓦台(大統領府)で、慮武鉉大統領と会談していた。彼らは日本の歴史問題が「北東アジアの協力と発展に否定的な影響を与えてはいけない」などと共同歩調を取りながら、小泉首相の靖国神社参拝を念頭に「域内の国家が正しい歴史認識を基礎に未来志向で発展できるように共に努力することで合意した。」と表明し日本側を牽制した。

この共同声明は日本に対する内政干渉であり、当然のことながら日本側がこのような中韓の声明に左右されることがあってはならない。この点についても前述した岡崎久彦先生は「米国と疎遠になり、中韓両国と接近すれば、中国の日米離間策に乗って、ますます日本が世界の中で孤立するのは自明の理だ。」と説いている。

このブログで連載している「極右とは何か〜2ちゃんねる大論争」の中で、『文明の衝突』について紹介しているが、この日米関係と共産中国、朝鮮半島の問題とは日本の将来にとっては死活的な問題である。

冷戦期において日本を欧米の論者は「ザ・ウェスト」と呼んだ。ところが、昨今の日本のマスコミは我が国の立場を「ザ・ウェスト」から排除してしまった。しかし、日本が紛れもなく「西側」の一員であることに変わりはない。

ハンティントン教授が予言するような『文明の衝突』がもし現実のものとなった時でも、日本が位置するのはあくまでも「ザ・ウェスト」であるべきで、そこから逃げて中韓の罠にはまるようなことがあってはならない。

日本の政界においては、小泉・安倍・麻生・中川氏などの「日米同盟」派に対して、福田・加藤・山崎・公明党などの「親中」派が「日中を軸とする東アジアの新体制」を目指して動き出した。反体制左翼や反日マスコミ、それに大アジア思想に固執する国粋右翼勢力もこれに加担している。

我々は早くから『日米共同覇権構想』を提唱してきた。文明論と現状認識の両面から、この二つの潮流のせめぎあいは続くだろう。

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Posted by the_radical_right at 10:04 │ mixiチェック │日米関係 

2005年11月16日

極右とは何か〜懐かしの2ちゃんねる大論争  (29)

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懐かしの2ちゃんねる大論争〜『文明の衝突』  その��

>匿名     2000・2・15

非常に興味あるテーマです。これなら私も少しついていけるか知れません。本の受け売りもあるかも知れませんが、読者のためにも少し解説させて下さい。もし、ピント外れでしたらお詫びします。

ハンチントン教授によれば、文明の優位を決定付ける要素は「領土と人口」「経済生産力」「軍事力」の3つであるとしています。

【領土と人口】  1920年に西欧諸国が全陸地の半分以上を占めていたものの、1990年代に至っては半減。人口も日本同様、急速に高齢化と少子化が進行し、逆に非西欧地域は増加している。このことは労働者及び兵士、予備軍の増加を意味する。

【経済生産力】1928年時点では西欧が世界の84・2%を占めていたが、80年代には49%、2013年には30%を下回ると予想されている。

【軍事力】冷戦終結後、NATOが1985年から1993年にかけて軍事予算を10%以上削減したのに対して、東アジア諸国は50%も増加させた。ここで西欧というのはアメリカ、ヨーロッパなどユダヤ・キリスト教圏にある白人文明をさし、非西欧というのは中国やイスラム諸国、東南アジア諸国をさしています。

西欧文明が弱体化する一方、非西欧文明は着実に台頭してきており、やがてこの両文明の間で不可避の衝突が起こる。・・・・・・・・・という内容ですが、「予言」といっても「オカルト予言」ではなく、世界の情勢からも論理的に説得力のある予言と云わざるを得ません。

さらにこれを補完する理論に村山節氏の発見した「800年周期説」というものがあります。「文明の研究・(村山節著/光村堆古書院)」これによると、ルネッサンスの頃に興隆期を迎えた西欧文明は、大航海時代、植民地時代、帝国主義時代、近代合理主義時代を経て、今完全に没落トレンドに入っている。

一方、それ以前の世界は、ササン朝ペルシャ、中央アジア、中国、インド、古代インドネシア、アンコールワットといった文明が花咲いていたが、ゲルマン民族の大移動やイスラム教徒の移動などの世界動乱を経て弱体化して、長い冬の時代に突入した。

しかし、それも次第に頭角をあらわし、今日まさに興隆期を迎えようとしている。あたかもDNA構造のように、互いに規則的な螺旋を描きつつ、壮大な流れの中で発展と衰退のリズムを繰り返す、この東西両文明のサイクルがクロスするとき、必ず世界的な大動乱が起こっている。それは可能な限り遡ることのできる過去6000年の人類史においてただの一度の例外もない。その文明サイクルのクロスポイントに当たるのが、まさに現代なのだと氏は結論づけています。

※『文明の衝突』の紹介だけになってしまいました。申し訳ありません。

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Posted by the_radical_right at 13:03 │ mixiチェック │極右2ちゃんねる論争 

2005年11月15日

ポスト冷戦の新潮流としての《極右》

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西欧における《極右》の台頭と、その原因を「移民」以外に求めると

 今回のフランスの「移民暴動」において、この問題を追及してきた《極右》勢力が注目されている。確かに《極右》は外国人移民について、反対を表明し国民に訴えてきた。しかし、《極右》が支持を伸ばしているのは、《極右》が単に移民に反対しているからではない。

 外国人に対する抗議の受け皿としてだけ《極右》の存在はあるのでなく、体制そのものへの抗議の対象として存在感を増している。こうした移民に反対する国民の票は当初は右翼・国粋勢力に集まった。

 しかし、それは単なる一時的な現象でしかなかった。旧来の右翼はゴマンとあったが、それを国政レベルにまで、きちんと取り上げる能力を持ったのが、今日のフランスの《極右政党》であったわけだ。

 対してイギリスやドイツにおいては、フランスの《極右》政党のように、国民の不安や不信感を代弁することが出来なかった。彼らは頭を剃り上げてスキンヘッドにして、徒党を組んで暴力的な破壊活動を繰り返してきた。ドイツにおいても暴力的な集団はそれでも活動しているが、歴史修正主義者で著名な人達はその活動拠点をアメリカ大陸に移したほどである。

 オーストリアとベルギー、オランダにおいても、《極右》政党はそれなりの成功を収めつつあるが、この成功の秘訣も人種間の緊張関係だけが要因とは言えない。確かに外国人恐怖症を巧みに煽った雄弁家が成功に導いたという説も間違いではない。しかしそれが全てではない。フランスと同じように体制への抗議が票となって表われている。

 西欧における《極右》の伸張は移民の問題が有利に作用したことは否定するものではない。しかし、もう一つ東西冷戦構造の崩壊というイデオロギーの問題が実はそれ以上のウェートを占めていると私は分析している。

 それはポスト冷戦の新潮流として、この問題を考察することから始めなければならない。平成5年3月7日付の産経新聞に、ユーロ・コミュニズム全盛期の1977年、痛烈な社会主義批判を展開したフランス新哲学派の旗手、ベルナールアンリ・レビ氏のインタビューが掲載された。

 このインタビューの中でレビ氏は、インタビュアーがイデオロギーに代わる争点を質ねたことに対して、明確にイデオロギーの相違こそ焦点であると切り替えした。つまり、冷戦時代は民主主義対全体主義(共産主義)の拮抗であったのに対して、世紀末を迎えた現在には、まだ何と命名すべきかも分らない新しいイズムの拮抗が見られるとの指摘であった。

 それは一番近いのはナショナリズムであるが、帝政ロシアやラテンアメリカなどで派生した下からの体制変革運動としてのポピュリズムやトライバリスム(部族主義)などであり、今後これらが増殖すると思われる。この指摘には興味深いものがある。

今三位一体という言葉が流行していますが、「赤(旧共産主義者)」「黒(宗教指導者)」「白(民族主義者)」がこの新しい潮流に深く関わってくることは間違いない。今後《極右》はこの新潮流の中でその存在感を増していくことだろう。

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Posted by the_radical_right at 15:10 │ mixiチェック │欧州極右 

2005年11月14日

[フランス極右]伸張の理由は非暴力主義

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フランス《極右》 言論は過激暴力性に富むが行動はいたって慎重

フランスにおける「移民暴動」について、これを取り締まる政府や警察の動きは報道されているが、《極右》勢力の対応については報道がされていない。ネットでは一部の無責任な人達が、イスラム系の暴徒に対して、《極右》勢力が暴力で反撃することを期待するかのような書き込みもあったが、それはフランスの《極右》勢力の現状を余りにも知らなさ過ぎる投稿である。

フランスの《極右》はご存知のようにシラク大統領との決選投票にまで勝ち残った程の力を持っている。ドイツのネオナチ組織のように暴力的攻撃に出ることは殆どない。かってのフランスの右翼は爆弾闘争を行なうなど過激な路線をとっていた。しかし、このような過激な路線と決別することによってフランスの《極右》は再び息を吹き返したのである。

フランスの右翼勢力は60年代の初めアルジェリアの混乱のあと後退を余儀なくされた。以後時代錯誤的な武力闘争路線をとって国民から見放されたが、70年代に入り、右翼はこれまでの国粋主義的な傾向から大衆運動(ファシズム)へと移行し始めた。73年に行なわれた総選挙において、右翼全体の得票が3%にもならなかったと言う敗北感が、新しい運動の必要性を痛感したきっかけとなった。

80年代の後半になるとルペン党首が率いる《極右》政党・国民戦線は総選挙において、463万票、14・4%の支持を獲得した。この時フランス共産党は歴史的な大敗を期し、国民戦線の半分の支持も得られなかった。

昭和63年5月1日、労働者の祭典と云われるメーデーに、あえて国民戦線は首都パリにおいて10万人の大集会を開催した。フランスの若き英雄「ジャンヌ・ダルク」の銅像の前から宮殿に向け行進を開始した。

この時、極左勢力がこん棒などで武装して、国民戦線のデモ隊に襲い掛かった。第5共和国の崩壊を恐れるミッテラン大統領率いる体制派(保守連合から社共)は、左翼勢力をけしかけ、国民戦線つぶしに陰謀を張り巡らしていた。

しかし、4000人も動員された国家警察も極左の妨害を撥ね退けて、整然と進む《極右》のデモ隊を取り締まることは出来なかった。彼らは一糸乱れず整然と行進を続けた。

「フランスに栄光あれ!」「フランスをフランス人の手に!」

デモに参加しているのは、左翼の日当を貰って参加した労組員とは違う。彼らは赤旗だが、国民戦線の若者等の手にはフランスの三色旗の小旗がしっかりと握られていた。彼ら若者の心の中には「このどうしようもないフランスを我々の手で救い出そう」という熱烈な愛国心があった。

なぜ、フランスの《極右》は台頭したのか、日本のマスコミはこぞってその原因を経済の不振、失業者の増大、外国人移民の増加などに求めているが、それだけではない。それは《極右》勢力自体の意識の変化、とりわけ活動家の自己改革による所が大きい。政治を志すものにとって、一番大切なことは純真(ナイーブ)である。

不安や不満の捌け口を求めて《極右》政党に支持が集まったのでなく、その不安を取り除くだけの政策を掲げ、試練を乗り越えてきたからこそ今日がある。左翼の繰り返す挑発行為にも目もくれず、国旗を掲げ国歌を口ずさみ隊列を乱さずに行進できるのは、彼らには壮大な夢と浪漫があるからなのだ。

西欧の歴史は《極右》に希望という扉(とびら)を開いた。この扉を自ら閉めるような暴力的な反撃を《極右》はしない。彼らは静かに自らの次なる出番を待っている。

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Posted by the_radical_right at 17:10 │ mixiチェック │欧州極右