2006年02月08日
日露の一つの悲劇『尼港事件』 その��
国民を震撼させた尼港の残虐
ロシアに突然共産主義革命が始まり、それは燎原の火のように広まっていった。この共産主義革命がヨーロッパにまで伝播することを恐れた英仏などは、米国と日本にシベリアへの出兵を強く要請した。
このシベリア出兵に対しては、朝野を問わず危ぶむ声は少なくはなかった。確かに日清、日露、第一次世界大戦と富国強兵策の実が勝利となって国民の大部分は度重なる軍事行動に馴れてしまっていた。
しかし、戦争への疲れがあったことも事実であった。それに国民生活の向上と大正デモクラシーと総称された自由の空気を市井の隅々の人までもが味わっていた。このような中において、この尼港の悲報は国民に知らされたのである。
「パルチザン(共産主義者)が日本人の捕虜を全員惨殺して、市外を焼き払って逃亡」という速報であった。
降伏した日本守備隊と日本人捕虜を助けるために救援軍が派遣された。この救援軍からの第一報だった。
救援軍が市内に入って見た光景はこの世のものとはとても思えないほどの惨状だった。当時の日本の新聞社は次のように報道している。
「残虐の跡を辿りて―。憮然として残虐の跡を語る。言々皆凄愴、句々鬼気帯びて人をして流涕滝の如くを禁ぜらしむ」
「残虐な魔手に屠られたる同胞七百の悲愴なる最後―大正9年5月24日午後12時を忘れるな!是れ血塗られたる尼港事件の真相よ、国民よ!この残忍暴虐の実況をつぶさに聞け」
全員虐殺され生存者が一人もいないのに、どうして事件の全貌が分かったのかと考えるのは私だけではないだろう。堰を切ったように報道された事件の真相は、現地に派遣された記者がまるで残虐の現場に居合わせたようなリアリズムで一貫されていた。
日本人は婦女子、老人、兵隊全てが殺されたが、白系露人が何人か助け出された。思想転向を申し出て処刑を免れた生存者である。更に逃亡中に捉えられたパルチザン捕虜。彼らの口から真相が漸時明らかとなっていったのである。
また、捕虜となった兵隊や殺された家族が最後に必死の思いで書き残した様々な通信日誌や感想録が発見された。この尼港における悲劇は日本人に大きな衝撃を与えた。そして共産主義の怖さというものを嫌というほど知った。
この共産主義の恐怖というものが、後々まで日本に重く圧し掛かってきた。日独伊反共軍事同盟を締結しながら、共産主義の総本山ソビエトとは中立不可侵条約を結んだり、モスクワまで進攻したドイツのヒトラーから「ソ連に背後から攻め入って欲しい」との要請についに首を振らなかった。
更には世界最強と言われた関東軍60数万人はソビエト国境沿いに展開していたが、対峙するだけで最終的には武装解除され全員捕虜となった。勿論、自決した将校もいたが、それは南方で戦って玉砕した兵士の数からすれば極めて少ない。
これらの事実は第二次世界大戦の原因を「自存自衛の戦い」「アジアの解放」の二つにしか求めてこなかった点に表わされている。
「共産主義との戦い」が強調されなかった背景として、この残虐事件があり、共産主義への恐怖が解けなかったということが考えられるのである。
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「秋篠宮妃殿下ご懐妊」報道を国民の一人としてお慶び申し上げます
天皇陛下の践祚(せんそ)については、我々はその霊威に従うのみとの立場です。この立場は今後とも変わらぬものであり、いかなる政治的議論にも与するつもりはありません。 瀬戸弘幸
2006年02月07日
風刺漫画と朝日社説・ヒューマニズムだけで論じるなかれ
朝日新聞社の社説「節度と寛容の心」は空虚さだけが…
朝日新聞社の今日の社説は「節度と寛容の心を持て」だった。イスラム教の預言者ムハマンドの風刺漫画をめぐる欧州諸国とイスラム社会の対立を取り上げている。朝日は「表現の自由を暴力で押さえ込む動きを容認するわけにはいかない」とするが、同時に「イスラム社会にも目を向けなければならない」としている。
最後は「表現の自由はかけがえのないものだ。だが、人の心のよりどころとする宗教への配慮は欠かせない。自由を守るためにも節度を保ちたい」と結んだ。二律背反という言葉があるが、まさに朝日の主張はそれだ。
「表現の自由」も「信教の自由」も確かに同じように正しいと思われる。しかし、この二つは共に正しいと思われる原理原則が、互いに対立する矛盾を抱え込むのが現実の社会である。そう簡単には両立し得ないのである。
こんなことは西欧の新聞社も最初から知っていた。にも関わらず、西欧の新聞社は反発を恐れずに敢えて風刺漫画を掲載した。それもデンマークだけでなく、ほぼ西欧社会の新聞社は全て同じように「言論の自由」を優先したのである。
このような西欧社会に朝日新聞社は「節度と寛容の心を持て」と説くのである。しかし、これはまるで説得力を持たない。およそ第三者としての論評でしか在り得ない。西欧社会は米国と違って、朝日新聞社が親しみを持つ社会民主主義政党が一度は政権の座に納まった社会である。
この西欧社会で現在、何が起きているのか?フランスの移民暴動でも明らかなように、異なる宗教・民族・人種が共存することが困難な社会が生まれているということだ。朝日新聞社が言う「寛容な心を持つ社会」など、有り得ないことを現実社会は示している。
今回の風刺漫画で米国のマスコミは掲載した側を批判しているが、フランスの左派系の新聞社は「表現の自由」のためには掲載は間違いではないと断固主張する。
そして朝日新聞だ。左派系のリベラルな主張と異にする対応を見せた。ここに我々は朝日新聞社の偽善性を見ることができる。
我々《極右》が代々木公園や上野公園を占拠する「イラン人追放!」を掲げ活動を開始した頃、朝日新聞社は我々を人種差別主義者、排他主義者と連日攻撃を加えた。
「なぜ、日本に来て憩いの場として利用するのに、それを奪うのか?」と人権派団体の弁を擁護した。
しかし、朝日新聞社は真実を伝えなかった。実は東京都の公園管理局に抗議の声を一番寄せていたのは一般の東京都民であったのだ。ほとんどの人がイラン人の追放を管理局に望んだのである。公園管理局は《極右》とイラン人の衝突を恐れたとして公園の一時閉鎖を決めた。
しかし、真実はイラン人の締め出しに多くの都民が理解を示したと言う紛れもない事実である。つまり、日本人は外国人にそれほど寛容ではなかったということなのである。ところが朝日新聞社はそのこと(寛容の無さ)には一切触れずに我々《極右》だけを批判した。
新聞社には社会の木鐸としての使命がある。西欧の新聞社は何故にイスラム教を冒涜するような風刺漫画を敢えて掲載したのか?彼ら西欧社会の深層心理の中に異質なものを遠ざけたいと願う気持ちがあることは確かだ。異質なものと共存・混住することの難しさを問うて見せたのである。まさに本音の訴えであったと思う。西欧社会はもうそこまで追い詰められているのだ。
翻って我が国の朝日新聞は、西欧社会がそこまで追い込まれていることも知らずに、ヒューマニズムを掲げ、寛容な心を説いている。理想の平和主義者を標榜する朝日新聞社の哲学は、現実の前には何の説得力を持ち得ない。今日の西欧社会は明日の日本社会でもある。その時、朝日新聞社の哲学はフランスの左派系新聞社のように変わらざるを得ないことを予言しておく。
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日露の一つの悲劇『尼港事件』 その��
忘れられない、いや忘れてはいけない生き証人の言葉
本日は北方領土の日です。日本政府は北方領土の返還運動を盛り上げるために1981(昭和56)年にこの日を制定しました。しかし、現在、返還運動が盛り上がっているとは思えない。国民の間には諦めの声すら聞かれるほどである。
冷戦の崩壊で一時旧ソ連が経済の危機に瀕したことがった。スーパーマーケットからは食料品が消え、暴動寸前まで行ったのである。思えばこの頃が日本としては交渉する絶好の機会だった。今、石油やガスの世界最大の輸出国となったロシアが、そう簡単に領土の返還に応じるとは考えにくい状況となっている。
今日は北方領土の日なので返還運動などについて書こうかと思ったが、これは別の機会に譲って、戦前の旧ソ連と日本との関わりについて述べたいと思う。いかにソ連は残虐な国家であり、日本はそれ故に祖国の防衛に神経を使わざるを得なかったか。
そのことについて、現在では余り話題にもならないが、連載で取り上げて見たいと思う。何故、世界でも最強といわれた関東軍60数万人は、ソ連との国境に対峙していたのか?戦うことなくシベリアに捕虜となって連行されたのか?この第2次世界大戦の最大の謎解きにもなるだろう。
私は福島県福島市生まれである。福島市といえば先ず年配の人が一番最初にあげるのは飯坂温泉である。かつては東北一の温泉街として有名であった。東北自動車道の飯坂インターで降りて温泉に向かうが、この丁度降り口に一際目立つ大きな墓標が立っている。
抜きん出て他を圧倒するかのような大きな墓標ではあるが、今はただひっそりと立っているに過ぎない。私がまだ23歳の頃、この墓標はいつも掃き清められ、一日として線香の絶える日はなかった。近くの温泉の下足番をしていた老人が、毎日足を運び供養していたからである。
彼の名字は菱沼さんと言った。当時70歳は確かに越えていると思った。彼は元憲兵将校で戦犯容疑を逃れ、各地の温泉場を転々としたが、最後にこの地を住居として定めたのは「石川中佐と尼港事件」に寄せる只ならぬ想いにあったからだ。
私はある時、この老人がこの墓標を掃除している姿を見て、非常に興味を抱き話をかけた。老人は多くの日本人に忘れ去られようとしていた尼港事件を私に教えてくれた。
自分の過去には触れたがらない。しかし、何故自分がこの墓標の掃除を続けるのかという、その背反する思いの中で私に語ってくれたのである。もう30年もの前の話だ。
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