2006年05月12日
中国共匪にかしずく日本財界
写真:王毅駐日大使は講演などで日中関係の改善を訴えるが…
政冷関係で露わになった商人(あきんど)の醜態
我が国の財界人のおつむの中には、中共というありがたい国家が存在し、皆さんその熱病に浮かされている。中共は近代化に向け、経済面における開放政策を採り、近年その躍進は確かに目覚ましいものがある。
ここで歴史を遡って見ると、昭和50年代頃から中共は「四つの近代化策」なるものを掲げた。これは20世紀中に「農業、工業、国防、科学技術」の四つの近代化を実現して、中国経済を世界の前列に立たせるというものであった。
今、21世紀を迎えて、この「四つの近代化策」は成功したかに見える。しかし、この「四つの近代化策」の中に、最初から含まれていなかったものがあった。
それは政治である。
経済は確かに開放され新しい段階に向かいつつあるようだが、最初から含まれていなかったもの、それが政治であり、政治的には共産党の一党独裁支配体制を維持して行くという原理原則は何十年も変わらぬ規律なのである。
中共が日本の財界人にこれまで甘い言葉と優しい顔で接してきたのは「資本家の手を借りて国力=共産党の力を強めるため」であり、決して本気になって日本との経済的な関係を深めようとは考えていない。
しかし、我が国の財界人はその辺りが全く分かっていないというか無知である。中国様はおカネを儲けさせてくれる有り難いお客様くらいにしか考えていない。
だから、相手が嫌がる靖国参拝の中止をすべきである、などと言い出すのだ。なぜ、中国共産党の指導部が靖国参拝中止を求めるのか?そんなことは今では中学生でも分かることだ。
つまり「四つの近代化策」から外れてしまった政治の近代化、すなわち民主主義であるが、この国民の要求を封じ込めるための方便なのである。
「日本軍国主義から中国を救い、今また日本軍国主義の復活を阻んできたのは中国共産党」であり、だから中国共産党の指導は絶対であると国民に押し付けているわけだ。
我が国の財界人はバカではないので、その辺りは先刻ご承知なれど、自らのそろばん勘定しか頭にないから、中国共産党の内政干渉を受け入れてしまう。金儲けのためには、国家の尊厳さえも売り渡して恥じる気持ちもない。
まさに商人とはこれ程に醜い存在なのか、改めて思い知らされた。共産主義者の唱える「能力に応じて働き、欲望に応じて受け取る」理想社会が実現するとするなら、このような商人が協力して初めて完成するものかも知れない。
しかし、その時、日本という国家が存在する保証はどこにもない。日本財界は中国共産主義者の期待の星とされているのである。
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2006年05月11日
極東アジア未だ冷戦真っ只中!
アジア外交の停滞ではない!
経済同友会(北城恪太郎代表幹事)はこのほど小泉純一郎首相に対して、靖国神社への参拝自粛や国立追悼施設の建設を求める提言をしたところ、小泉首相は「商売と政治は別である」として反論し、安倍晋三官房長官もこの反論を支持するとした。
言うまでもなく、中国のような共産主義独裁国家と異なり、日本が政治と経済が分離した民主主義に基づく自由主義経済の国である以上、中国の尺度のみを以ってして外交を論ずるのは誤りだろう。
「日中間の経済関係は今までになく拡大し、交流も深まっている。影響ないように努力していくのが双方にとって大事ではないか」とした小泉首相の見解には、経済にまで共産党政府の意思・統制が介入する中国の体制と自由主義経済の日本を同列に論じるのは無理があるのではないか、とする意味が含まれている。これは中国共産党政府より、むしろそのような他国の意を受けて、わざわざ自国の首相に献言する経済界首脳らが厳しく指弾されなければなるまい。
公明党の神崎武法代表は首相の反論について「単に政治は政治、経済は経済と割り切るのではなく、経済の実態を含めて把握した上で対応をお願いしたい」と述べたが、日本が主権国家として毅然たる姿勢で外交に臨めるよう、経済界こそ何らかの配慮をして然るべきではないのか。彼らは経済への悪影響を憂慮しているのだろうが、政治・外交における悪影響が何ら憂慮されない事態は本末転倒でさえある。
先頃、麻生太郎外務大臣は新人議員の勉強会の席上にて「極東アジアにおいては未だ冷戦が終結していないとの認識が重要だ」と述べた通り、日本を取り巻く周辺に中国や北朝鮮など共産主義独裁国家が依然として存在しており、それらが日本に直接的脅威を及ぼすという事態が冷戦状態の延長として展開されている以上、これら周辺国の内政干渉に屈するか屈しないかは即ち日本国の死活問題に直結すると言っても過言ではない。
「日中、日韓の首脳交流がない一事を以ってアジア外交が駄目だと言うが、それは偏見か誤解だ。アジア諸国でもアフリカ、米欧でも日本への好感度は高い」(小泉純一郎首相)
確かに日本は中国に経済の多くを依存している。外交上の日中関係は停滞・破綻と指摘されてもいるが、両国関係が冷戦構造の継続と考えれば至極正常だ。それでも経済関係及び交流が以前にも増して拡大している背景には自由経済の尊さが物語られている。
中国共産党独裁政権の��密使�瓩叛�り下がった経済界首脳がリードする日本経済にこそ、先行きには暗雲が漂っていると見るべきだろう。彼らの姿勢を見るに経済しか知らないのではないか、と訝しく思えてくる。経済だけを見ていては経済は語れない。彼ら経済界首脳にこそ、自由主義経済を尊ぶ者として、また日本人としての品格を備えるよう献言したいものだ。
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宮崎哲弥評論家がネットを憎悪と敵視
ネット右翼は単なる憎悪の表出?
宮崎哲弥(みやざき・てつや)という評論家をテレビでよく見かける。レギュラー出演番組も多数あるようだ。爆笑問題が出ている番組では常連だ。この宮崎氏が10日の朝日新聞の文化紙面の中で書いていた。
進む保守思想の空疎化
「新たな敵」を求めて錯乱 現実主義すら失調
「この十年は戦後保守の最盛期だった。保守的な言説が広範に浸透し、日本の政治基軸は確実に右にシフトした。だが皮相な盛況な影で、思想内容の空疎化が進んでいるのではないか。90年代末辺りから保守陣営内で囁かれはじめた危惧が、今現実の危機として露呈しつつある」
この書き出しの文章を読んだだけで、今後の内容が容易に推察される。なぜなら「皮相な…影で…空疎化…危惧が…現実の危機と…露呈しつつ」と否定的な言葉が並びたてられているからだ。
彼は「色褪せた『反共』の旗印」との中見出しのついた文章で次のように言っている。
「東西冷戦の終結…などの時代を経て、保守をめぐる環境は大きく様変わりを遂げた。左翼理念の失墜、革新勢力の退潮に従って『反共』という旗印が色褪せてしまい。『〜に対する保守』という大きな枠組みが揺動し始めた。…彼らは関係概念としての保守のあり方に不満を抱き、自生的、体系的な「主義」への再編を目指した。『〜に対する保守』から『〜に向かう保守』への脱皮を思考していたのである」
それが「伝統」や「慣習」を反省的に捉え直し、再提示することに努力したが、その理解や支持は十分に拡がらなかったと結論付けている。
私は「反共」という旗印が色褪せたとは全く思わない。いやむしろ、その輝きはこれからより増して行くことだろう。共産中国、北朝鮮という共産主義独裁国家、ノ・ムヒョン現韓国左派政権に対峙しなければならない我が日本にとって、「反共」というイデオロギーが色褪せることなどあり得ない。
もし、これを色褪せたとして国民に過小評価を迫る評論こそ、そこに共産主義への支援を込めた意図的なまでの策略を感じない訳にはいかない。共産主義の現実的な脅威から目をはぐらかしているようにしか見えないのだ。
反共=保守ではない。しかしながら共産主義が「伝統・文化」に挑戦するイデオロギーである以上、保守が「反共」の旗印を捨てるなど考えられない。保守と極右もまた多くの共通点を持ちながら、「反共」一つ取っても微妙に違う。
保守は日本という立場から「伝統・文化」を守るための「反共」でしかない。勿論そこは考えは同じだ。しかし、我々《極右》は世界的視野に立った場合でも、守るだけでなく、攻め滅ぼす思想として共産主義を捉える。
つまり、共産主義に蹂躙されている民衆の解放である。共産主義とは反対するだけでなく、永久にこの地上より抹殺しなくてはならない思想である。「反共」から「滅共」への転換こそ我々に課せられた神聖な義務と考える。
さて、ここからがこの宮崎先生と朝日新聞の訴えたかった点だろう。
「インターネットという感情の増幅を特質とするメディアの普及とも相俟って『新しい敵=新しい規定』を求めて散乱して行った。中国や韓国、ジェンダーフリー教育、マイノリティ運動、女系天皇、媚中派など『敵』を見出しては、その都度、対象に逆指定されるような思想実践では、やがて細分化と惰性化とを避け得ないであろう」
この分析は的を得ていない。このような考えは前からあったが、それを発信する術を我々の陣営と仲間が保持していなかっただけのことである。ネットの普及はそのような考えを社会に広めさせるきっかけを作り出したに過ぎない。
「敵」は前から存在したが、我々はネットという武器を入手したことによって、それらの「敵」を撃つ範囲にまで追い詰めてきたというのが正確な分析である。
そして彼は最後を次の言葉で締めくくる
「自省の契機も、熟慮のよすがもなく、ただ断片的な反応―それもしばしば激越に走る―しか看取できないとすれば、それはもはや保守とも保守主義とも無縁の、単なる憎悪の表出に過ぎない」
最後にようやく本音というか正体を現した。難しい漢字や難解な文章を重ねてはいるが、ようするにネット右翼は憎悪に駆られており、それは日本の保守派とは無縁な存在であると言いたいわけだ。
彼はまだ若いので、これまでのような評論家とは違うのかも知れない。これまでの多くの評論家や学者・文化人の多くは若いときにマルクス主義を学び経験している。マルクス主義の根本には憎悪が潜んでいる。だから、マルクスを捨ててもその憎悪だけは消せない。
国家を純粋に思い、将来を憂いる行為が、「単なる憎悪の表出」にしか目に映らない。私はそのような宮崎先生に哀れみの姿しか見出せないのである。
保守主義と無縁であると決めつけられるなら、それも良かろう。ネット右翼は極右ナショナリズムの担い手として登場すれば良いだけのことである。その方が既成左翼に逃げ場はない。なぜなら極右は単なる反共勢力では終わらないからだ。
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