学習シリーズ 「アジアは一つに非らず」��
かつて岡倉天心は「アジアは一つ」と叫んだ。これは明治以来、心有る日本の思想家、知識人、志士達が抱いた共通の感慨でもあった。抑圧され植民地となったアジアを解放することは、唯一独立を守り抜き、近代化に成功した日本の使命であると、多くの日本人が信じ「大アジア」の団結を夢見た。
戦後、アジアの植民地国家はその殆どが独立を獲得したが、未だに経済・政治の混乱に苦しんでいる国も多い。アジアNIESと称される幾つかの国々の発展は、目を見張らせるものがあるが、まだまだ経済援助を必要として自立できない国もある。
「東アジア共同体」や「大アジア」を唱える方々がおられる。このような方々は「戦争の反省」もよく口にされる。最近とみにこの点に言及される人が多くなった。小泉首相の外交で日本はアジアで孤立するという主張である。
ここでこの日本孤立論にはあえて反論しない。他の多くの右派ブログが反撃をしているので、そちらにそれは譲ることにしてここでは割愛する。果たしてアジアの諸民族は左翼が言うほど「反日」なのか?また、それ程償いを要求しているのか?
私はそれほど「反日」に凝り固まっているとは思わない。逆に右翼が云うほどに「親日」でもないし、感謝もしていない。このように云うと根性悪く思われそうだが、私は「アジア」を云々する前に、そも「アジアとは何ぞや?」との疑念に襲われる。
喩えばインドはアジアであるが、同時にコーカソイド、アーリア人種である。フィリピン人は血統的にも、言語的にも、宗教的にも長い植民地支配によって多分に欧化され、アメリカナイズされ、むしろ実際に行って見れば分かるが、ラテンアメリカのような文化に満ちた国である。
フィリピンにおいては何かにつけて、自分の子どもをアメリカやスペインに学ばせたことが自慢であり、その生活習慣を模倣したがる。「脱亜」「入欧」は何も明治の日本人の専売特許ではないのだ。他のアジアの国においても支配階級や富裕層は欧米に気が向いている。
恐らく、少なからぬ日本人は皇国日本をして、欧亜から疎外された、イソップ童話のコウモリのような怪しからぬ存在と思っているかもしれない。しかし、日本人が帰属すべきアジアという存在こそ曖昧なものでしかない。
確かに地図の上ではアジアと呼ばれる地域に位置しているが、それだけでアジアは一つなどと言うのは、全く理解しがたい事なのである。アジアとは纏まった一つのものではなく、何も無理やり一つに括る必要もないのである。
