河村たかし名古屋市長の勇気ある発言
シナ・中国共産党の歴史捏造で討論を呼びかけ。
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河村市長「南京大虐殺なかった」…中国訪問団に
名古屋市の河村たかし市長は20日、中国・南京市の共産党市委員会常務委員ら8人に対し、南京大虐殺について、「戦闘行為があって多くの方は亡くなったが、いわゆる虐殺はなかった」と持論を展開した。
同日の記者会見で明らかにした。
一行は友好都市である名古屋市の河村市長を表敬訪問。劉志偉常務委員らに対し、河村市長は「亡くなった父が1945年の終戦時に南京にいた時、地元住人にやさしくしてもらった。虐殺のようなことがあれば、対応が違っていたはず」などとして、南京市で討論会を開くことを提案した。
河村市長は2009年9月の市議会で、中国が南京大虐殺の被害者を30万人としていることに対し「深い疑問がある。誤解されて伝わっているのではないか」と一般質問に答えた。名古屋市市長室国際交流課によると、河村市長は昨年12月5日、名古屋市役所を訪れた南京市の李(リ)副市長に対しても、大虐殺はなかったとする趣旨のことを発言している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120220-00000971-yom-pol

名古屋市を表敬訪問した南京市の共産党員に対して、南京虐殺という歴史の捏造について、それが虚偽であることを訴え、しかも討論会まで提案した河村たかし市長は勇敢と言うか、日本男児としての男気を感じます。
河村さんの親父さんは南京に兵隊としておられたのですね。その父から直接聞いたことを信じるのは当然です。この河村市長の討論会の提案に対して、中国共産党がどのように対応するのかが注目されます。
この問題に関してはこれまでも何回か記事にしています。

この「南京事件」は朝日新聞社のでっち上げですが、朝日新聞記者によって否定されています。
「南京大虐殺はなかった。」の中から転載
作家の阿羅健一氏の著書「聞き書 南京事件」(現在は絶版、小学館刊「南京事件日本人48人の証言」にて再販中)は、当時戦場にいたジャーナリストの人達に集まってもらい虐殺があったかどうかをたずねているものですが、ほとんどの記者が、「そんなことはなかった」と言っております。
有名な細川隆元さんは朝日新聞の編集長だった方ですが、その細川さんが編集長時代に南京に派遣していた記者を集めて、南京虐殺事件の事を聞いたところ、「そんなものはありません。」とハッキリ答えたと言っておられます。
要するに、モノを正しく見て正しい事を言おうとする人は、南京に虐殺事件はなかったとハッキリ言っているのです。虐殺があったと言っている人達は、世の中に迎合している人が多いのです。
以上
戦後、朝日新聞社が捏造した二大事件とは「従軍慰安婦強制連行」と、この「日本軍の南京大虐殺」です。朝日新聞社の罪はいつの日か裁きにかけなければなりません。絶対に許されない新聞社と言うか国賊集団なのです。
しかし、河村市長は立派です。
「南京大虐殺はなかった」 この事に関しては日本人の誰もがそのように思って来たのに、政治家もマスコミも沈黙したままです。そのような中でこれだけ明確にものを言い、討論会も呼びかけていますので、これは敬服に値すると思います。
中国共産党の反応ですが、討論会には応じる気配はありません。
【北京=朝田憲祐】中国外務省の洪磊副報道局長は20日の定例会見で、名古屋市の河村たかし市長が「南京(大虐殺)事件はなかったのではないか」と発言したことについて、「そのような見解には同意できない」と不快感を示した。
洪副局長は「南京大虐殺には動かぬ証拠がある」と強調。「日本の関係者の皆さん(公人)は、歴史の教訓を適切にくみ取り、中日関係の安定と発展を進めるよう希望する」と述べた。
中国のインターネット上では「南京市は、名古屋市との友好都市関係を解消すべきだ」「日本を旅行しても、名古屋には遊びに行くべきではない」など、市長発言に対する批判的な書き込みが相次いでいる。
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2012022190003217.html
堂々と討論会を開催すれば良いものを、やはり歴史の捏造が怖いのでしょう。この点は共産党自身が一番知っています。反日プロパガンダとして利用してきた訳ですから、検証作業などされたら困ってしまうという事でしょう。
私が南京問題でこれが歴史の捏造であると聞いたのはかなり昔のことですが、そのことを以前ブログの記事に紹介しているので、それをここで掲載させて頂きます。2006年11月28日の記事です。
南京事件と松井大将
写真:田中正明先生の不朽の名著
東京裁判において松井石根被告(元陸軍大将)は南京事件の責任だけで死刑に処せられた。訴因の第一から第五十四までは全て無罪であったのに、第五十五のみが有罪として絞首刑になったのである。
これを早くから冤罪であると訴えてきたのが、この松井大将に昭和8年から昭和17年12月に応招されるまで、約10年間を民間人として仕えた田中正明先生であった。
私の日記にはこの田中正明先生との初めての出会いを、感動の一日として次のように記されている。
「昭和61年11月13日(木) 私は大阪市天王寺区の浪速会館で、明日を考える時局講演会(教育シンポジウム実行委員会主催)に参加をさせてもらいました。
講師は不朽の名著である『パール博士の日本無罪論』の著者である田中正明先生です。シンポジウムの名称は『過去・現在・未来・錯誤の中にある戦後史観・今こそ近・現代史の核心を問う!』と題されたものでした。
司会は皇學館学校教諭・三輪尚信先生で、最初に福井大学教育学部助教授・小林道徳先生の講演がありました。当時、私はこのシンポジウムを開催した丸山栄一氏と親交があり連絡を受けたものです。
なぜ、私がわざわざ大阪まで出かけて行ったかといえば、それは田中正明先生の話をどうしても伺いたいと思ったからです。先生の著書の愛読者でもありました。
田中正明先生はこの講演の中で、東京軍事裁判の不当性について話をされました。私は先生の書物で初めて南京大虐殺といわれるものが、戦勝国によって捏造された虚偽の事件であることを知ったのです。
この時の話を箇条書きにメモしてありましたので、それを綴らせて頂きます。
東京裁判の狙いはいかに戦場における日本の軍隊が残虐であったかを世界中に喧伝するために持ち出されたものである。
これは言い換えれば日本の皇軍とは秩序正しく、如何なる場合においても、そのような非道な振る舞いはしない―という、これまで世界の人達が認識していたものを崩すことにあった。
そのために戦勝国はおびただしい証拠と証人をこの東京裁判に集中させた。しかし、その証拠及び証人の多くが伝聞であり、戦勝国側の現地における一方的な聴取であった。
松井大将は南京の市民を保護する目的がありながら、その義務を履行することを怠ったとして犯罪者として絞首刑に処せられた。しかし、これはインドのパール判事が当時の東京裁判の意見書の中で述べているように極めて不自然なものだった。
松井大将は当時南京は中国の首都であり、外国の特派員も多数おり、万が一にも民間人などを巻き込むことがあったら、それは世界中に打電されるとして、全軍に対して仔細なる訓令を出していた。
それによれば、一般居留民並びに中国民衆を紛争に巻き込まないように常に留意して、外国出先機関とも密接なる連絡を保持するように命令を発していた。
この命令は外国の権益を侵したり、民衆への略奪行為を行なう者は厳重に処罰するとあった。南京攻略に際して日本軍の虐殺があったとの報告は全くなかった。
現に当時の外国の新聞に日本軍が虐殺したという報道は一行もなされてはいなかった。この事件が明るみになったのは東京裁判において、初めて提起されたものである。
田中正明先生は処刑直前に松井大将から手紙を頂いた事を話されました。その手紙の文面には自らが冤罪で処刑されるにも関わらず、次のように記されてあったといいます。
―誰を恨み、何を嘆こうぞ、これで何もかもさっぱりした。このうえは自他平等の世を念じつつ永遠の眠りにつきたい―
この手紙を書いたその日の夜、松井大将は「天皇陛下万歳!」と言いながら、静かにしっかりとした足取りで13階段を上って行ったそうであります。
その後、何回か会合などで田中正明先生とはお会いする機会がありました。先生がよく口にされていたことですが、南京大虐殺の真意を語ることは、東京裁判を否定することになる。
それは容易なことではないが、それをせずして日本国の再生は有り得ない。戦勝国はドイツに対しては「ニュルンベルグ裁判」でユダヤ人虐殺を人道に対する罪としてこれを裁いた。
日本に対しても、どうしても人道に対する罪を被せる必要があった。それは自らの原爆投下に対する後ろめたさからであった。しかし、どうしても人道に対する罪など探しても見当たらない。
そこで南京大虐殺などをデッチあげたのである。広島・長崎への原爆投下、日本の主要都市への空襲、これらの犠牲者の数を上回る大虐殺をどうしても、彼らはでっち上げたかったのです。
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