自分史について(2)
先ず、前回のエントリーにあったコメントを最初に紹介しておきます。
Posted by 期待しています at 2013年10月24日 05:15
これまで語ってこなかったことがあります。それはスパイ粛清事件 - Wikipedia。と呼ばれているものです。一水会の木村三浩会長などは活動家は敵側のスパイであり、それを処刑したなどとこれまで言って来ましたが、それは全く事実に反することです。
いずれ自分史を出版する時に明らかにしようと思っていました。殺されたのは私の配下の人間でしたが、私は事実に反するのに、そのことに関しては一切これまで沈黙して来ました。なぜ、反論しなかったのか?
それには深い事情があります。亡くなってしまった人間はもう二度と戻らない。しかし、刑に服した人にはその後の人生がある。だから、そのことを考えて沈黙してきた。私が沈黙していることを良いことに木村三浩会長などは事実に反することを言ってきました。もう正直に話をして欲しものです。
ただ、鈴木邦男氏だけは私に事実を認めそれに関しては「迷惑をかけた」との言葉を頂いた。活動家を離れて久しい鈴木氏だが、本人も肩の荷が下りたのではなかったか、それは展転社の創立30周年の記念パーテーの席であった。
過去記事引用開始
私はこのような偉い方々とは面識もないので挨拶もしませんでしたが、かつての民族運動でお世話になった方々とご一緒出来たのが懐かしくそして本当に嬉しい時間となりました。
山浦嘉久 月刊日本論説委員
犬塚博英 民族革新会議議長
四宮正貴 日本文化研究所所長
そして遅れて鈴木邦男さん(一水会前代表・現顧問)もやって来ました。鈴木さんから思わぬ言葉を頂いた。ここでは書きませんが、長年わだかまりとして私の心に残っていたことが全て水に流せるほど私にとってはとても大事なことでした。
本日さっそくある人物に会ってその事を伝え、「これでようやく心の中にあったもやもやが晴れた」と伝えると、その人物も喜んでいました。いずれ語ることがあるかも知れません。私は長い間沈黙を守って来ました。かつての運動上で生じた軋轢が一瞬にして溶けていくのを感じた。でも、やはり長い時間を経過してしまいました。
私より先輩の方ばかりですが、東京に出て来た何も分からない私を可愛がってくれました。今はそれぞれ違った道を進んでおられるが、このような機会だからこそ、また懐かしい思い出も甦った夜でもありました。
終わり http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52937700.html
頂いたコメントはこの事を指しているのでしょう。いずれ真相を明らかにしたいと思います。
さて、前回の続きを書きます。私が篠原節(たかし)会長とお会いしたのは22歳の頃であり、その切っ掛けは参議院の選挙の時でした。私は当時は自民党の青年部に所属していましたが、参院の全国比例区に出馬した糸山英太郎という人物の応援をすることになっていました。
好んでこの人物を応援したわけではなく、たまたま私がこの候補者の応援に割り振られたということです。もし、この選挙応援がなかったら篠原会長とは会うこともなかったでしょう。糸山英太郎が福島に来て講演するというので、その聴衆を集める役目を仰せつかった。
この時に初めて会った訳ですが、このような出会いなので右翼活動家とは全く気がつきませんでした。どう見ても恰幅のよい実業家くらいにしか思わなかった。この選挙が終わった後に自宅に招かれて初めて篠原氏の思想を知ることになる。
以前も書いていますが、私は当時公務員であり本来は政治活動は表向きは出来ないのですが、余りにもの市職労(自治労配下)の左翼が強く、それに反発する形で密かに活動していた。自民党に所属はしていたが、「ヒトラー・ナチス研究会」というビラを電柱に貼りだし仲間を集めていた。
私が篠原会長の自宅に招かれた時の衝撃は、一言で現すなら<運命の出会い>と感じた程でした。当時篠原会長は玄関先にドーベルマンを飼っていた。当時としては珍しい犬だったが、ドイツに関する書物を目にしていた私には、それがドイツのナチスが軍用犬として育てたものであることを知っていた。
部屋に案内された先ず驚いたのはナチスの党旗・ハーケンクロイツとアドルフヒトラーの大きな肖像であった。油絵で描かれた軍服を着た総統の上半身の姿だった。度肝を抜かれたと言って良いでしょう。
私がヒトラーに感心を持ったのは長沼博明という方の著書『ヒトラーの闘争』を読んだからでした。当時世界最大の力を持ったドイツ共産党との熾烈な戦いに勝利して、ドイツを共産主義の魔の手から救った。その戦いの軌跡を読む内に惹かれて行ったのです。
私はその瞬間から篠原会長を自分の先生であると肝に銘じた。何の迷いもなくその後の人生は篠原会長と共に歩んで来た。篠原会長の作った「民族思想研究会」に入会し直ぐに宣伝局長の肩書きを与えられた。
篠原会長をヒトラーになぞらえ自分はゲッペルスを夢見た政治運動の始まりだった。「民族思想研究会」に所属していたのは2年間だけでした。会員同士のつまらない争いに嫌気をさして辞めた。篠原会長が埼玉県に引っ越ししてしまったのも大きな理由でした。
その後30歳から東京に出るようになった私はその後も会長を尊敬し今に至ったが、私が独立して『日本憂国会』を設立してからも、『民族思想研究会』の副会長というナンバー2の地位は組織図にはなかったが、事実上私であった。
今回篠原会長が亡くなられ生前親しくしていた方々から話を聞いたが、いつも私のことを話題にしていたそうです。自分の一番弟子として私を常に自慢して話をしていたと聞き、私も大変嬉しく思いそして感謝も念を改めて感じた。弟さんなどの身内にも話されいたというので余計驚きました。
先日遺族の方とお会いさせた頂き、アルバムを見させて頂いた。その中に入会した頃の懐かしい写真が一枚だけあったのでここに紹介します。
実は私は20歳代の写真がこれまで一枚もなかった。27歳で結婚したので、高校を卒業してからの18歳から26歳までの写真はこれ一枚です。
昔から写真が嫌いでした。可愛い子だねなどと言われたので、男としてはそんな風に言われたくなかったので、なるべく写真には写らないようにしていた。
だから、今回篠原会長のアルバムに貼ってあったこの写真が20歳代前半のたった一枚です。
かなり劣化しているので、鮮明ではありませんが、中央に座っているのが篠原会長で、その隣のワイシャツ姿は私です。当時篠原会長が住んでいた一軒家で撮ったものです。このメンバーの中では私の隣、一番右端、後ろに立っている二人が私が勧誘した若者でした。
今回、篠原会長の死去で私がやらなければならない事が一つ出来ました。それは日本におけるナチス・ヒトラーを信奉する活動です。これが終わってしまう。そこで実際の行動はしませんが『ヒトラー・ナチス研究会』を再興することにしました。
主に勉強会と共に語り合う場としてのものです。全国でヒトラーナチスに興味のある方はメールを下さい。ヒトラー・ナチス研究会で篠原会長が残された膨大な書物や資料を受け継ぎたいと願っています。近くご遺族の方とも話し合い、出来るだけ書物などは買い取らせて頂く交渉を始めるつもりです。
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せとさんにしか語れない事実が沢山有ります。特に80年代〜90年代の右翼民族派運動については一水会系以外の語り部が皆無の上、噂や都市伝説が一人歩きしていて、正確な情報が余りにも少ないように思います。