なぜ、A級戦犯批判は突然開始されたのか?その背景を探る!
靖国神社にA級戦犯と左翼や偏向マスコミが呼ぶ方々が合祀されたのは1978年(昭和53年)のことであった。それから中曽根総理の1985年(昭和60年)まで歴代の総理(福田、大平、鈴木)は靖国神社に参拝を続けた。
吉田内閣から田中内閣までは何の問題もなかった。ただ三木総理が私的参拝と称したので、天皇陛下は公私の区別が出来ないということでその後参拝を避けるようになった。それから福田内閣の時にA級戦犯合祀が行なわれたわけだが、福田・大平・鈴木と外国からはクレームは一切なかった。
戦後総決算を掲げた中曽根総理は堂々と昭和60年8月15日の靖国参拝を公言し実際に参拝した。ところが、この時初めて中共からA級戦犯合祀に対する批判があって、翌年には公式参拝を断念してしまった。
昭和61年11月1日に私が主宰している「世界戦略研究所」発行の機関紙「世界戦略」は当時このように伝えていた。
「敗戦国家日本の“戦後総決算”に失敗した中曽根政権」
「米国・中共・韓国の内政干渉に屈した国辱外交」
ここで注目して頂きたいのは中共・韓国より前に米国が記されている点である。
ご存知のように米国のレーガン大統領とはロン・ヤスと呼び合うほどの仲の良さをアピールしていた。しかし、その内実はかなり複雑であった。当時日本経済は上り調子、それに比べて米国は旧ソ連との軍拡競争に疲れ果てていた。
確かに米ソは戦勝国で世界を分割統治して支配していたが、経済的には西ドイツと日本に追い抜かれようとしていたのである。冷戦の崩壊は米ソを裏で操るユダヤ金融資本の陰謀であったとする国際謀略本が書店に溢れていた頃でもある。西ドイツには東ドイツの併合で、日本にはバブル崩壊で、国力の低下を迫るというシナリオが裏で画策されていたという陰謀・謀略情報も乱れ飛んでいた頃である。
さて、当時の記事を紹介することにしよう。当時の世界情勢は旧ソ連に対して、米国と中共はある意味同盟関係にあったことを留意して欲しい。
「今回の靖国神社のA級戦犯合祀問題は中共から文句を付けられたことになっているが、それを裏でけしかけたのは米国である。米国はかねてから日本国内にナショナリズムが高揚することをニガニガしく思ってきた。実はこの動きは昨年秋に遡る。中曽根総理は昨年『靖国神社』を公式に参拝したが、その直前の8月6日、40回目を迎えた広島の原爆投下における平和祈念式典に参加、核兵器の廃絶を世界に向けて訴えた。
しかし、これは米国を刺激するものだった。これを聞いたレーガン大統領は前日の5日、わざわざ異例の記者会見を開き、原爆投下について『人類史上最大の戦争を終らせるために使用された』と肯定的な発言をした。
この一連の動きはこれまでの両者の関係を考えれば驚きの感を出ないが、とにもかくも中曽根総理の行動が米国を苛立たせたことは事実であった。
そして、中曽根総理はレーガン大統領に対して秋の国連総会に主席して『敵国条例』の撤廃表明の意向があることを明らかにした。外務省は既に演説の草案まで検討していたのである。
そこに突然ふって沸いたように起きたのが、中共からの『軍国主義復活論』であった。彼ら戦勝国の狙いはハッキリしていた。『余り調子にのると敵国条項を発動するぞ!』という脅し意外何ものでもなかった。
慌てた中曽根総理はレーガン大統領とこの事態を収拾するには、無念ではあるが『靖国参拝中止』を約束する他に手立てはなかった。今年の総選挙で歴史的圧勝を収めた中曽根首相が『近隣諸国への外交的配慮から…』と見送ったのはレーガン大統領との裏取引した背景があった為にどうにもならなかったのである」
この記事の後にはこの動向を見たゴルバチョフが日米中の経済同盟にくさびを打ち込もうとして、微笑戦術に転換して北方領土の墓参団の再開や自らの訪日を決めた。あるいは中曽根総理が米国の『知的水準』失言は内心米国に快く思っていない証左だ…などの記事が書いてある。
この記事の正しさは今でも確信をもっている。
当時外務省関係者からも内密に情報を得ていた。『敵国条項』撤廃発言で米国・中共からの圧力に屈して、その事態収拾のために「靖国公式参拝」を諦めざるを得なかった。
その時々の冷徹な国際政治の中で、日本の政策は変化を余儀なくされてきた。我々はこの事を努々(ゆめゆめ)忘れてはいけないのである。外務省OBの岡崎久彦先生(平成4年退官)は、2005年2月6日の読売新聞朝刊「地球を読む」の中で興味深い記事を残している。
「中曽根内閣の初めの二回の参拝の時は何も問題にしていない。問題として出したのは、戦後の総決算を標榜した1985年の中曽根総理の参拝以降である」 (ニュースソース)
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