早成桐と農業委員会
読者の質問に答えます。
せと先生にお尋ねいたします。 早生桐は成長が早く5年で成木となるそうですが、この桐の用途はどういうものになるのでしょうか? 不勉強ですみません。よろしくお願いいたしま |
資料を送りますのでメールにて申し込み下さい。10月にはいれば会社のホームページも立ち上がります。グリーン・イノベーションというベンチャー企業です。
私は代表者でもなく、単にこの会社の投資者であり、この会社からの委託を受けて畑や山に桐を植えて育てます。
早成桐(これが正式名称)です。これまで
用途は板材としての利用、製紙会社、バイオ発電会社、企業イメージアップを考えている二酸化炭素排出会社、皮は良質のセルロースが含まれているので新エネルギー開発を研究する会社など多種にわたります。
会社のHPも10月には公表されます。後日アドレスを張り付けておきます
なお、山林や畑をお持ちの方も相談に乗ります。農業委員会の対応にお困りの方はご相談ください。大きな面積であれば、購入や借りる相談にも乗ります。
この件に関して前に詳しく書いていますのでご紹介しておきます。
会津武士道を高く評価した伊・独国民
命懸けで記念碑を守った会津人
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ブログの記事を見たという方からメールを頂きました。母親が会津出身でこの白虎隊とイタリアとドイツから送られた記念碑のことに関しても母親から聞いて知っていたそうです。
子供の頃にこの外国から送られた記念碑を見て、その記念碑を守った会津人の魂を聞いた時には、子供心にも誇りを感じたとメールに書いてありました。
「文中のドイツの記念碑ですが、命を懸けて護ってくださったおばあさんがいらっしゃいました。下記に山口弥一郎著『白虎隊物語』より抜粋します。」
「著者のあとがきもすばらしく、会津の郷土愛とはかくも深いものかと胸にこみ上げてまいります。いつか瀬戸先生に送ろうと用意しておりましたが、書き写しながら涙が溢れて仕方がございませんでした。先生の後に続く若者に白虎隊精神をお伝えください。」
有り難う御座います。この紹介された全文をここに掲載させて頂きます。
白虎隊物語
戊辰秘話
第一部 白虎隊物語
六 夜明けのいけにえ
永い封建の夢も、国民の尊王の気運には抗すすべもなく、維新の大業を前にして京都は収拾すべからざる状態にたちいたっていた。時の孝明天皇の御信認あつかった会津藩主松平容保は、その治安の任に当たるようにね文久二年幕府から京都守護職の任を与えられて、狼藉至らざるなき都を前後六年間に亘って護りつづけた。
しかし将軍家茂の死去についで、孝明天皇が崩御されると、世は急に改まり、大政の奉還、王政の復古の詔勅が下るまでにたちいたった。封建の世の忠とは、直属の支配者に奉げるものとの思想が培われ、これを改めるには世の推移が余りにも急激に襲ってきたのである。容保には守護職時代の忠誠と、会津藩祖保科正之が徳川二代将軍秀忠の子で、永く幕府をものたててきた。固い伝統が流れていた。
容保は鳥羽、伏見の戦後会津に帰り、ひたすら恭順の意を表していたが、その誠意は薩摩、長州の側近にはばまれて、天聴に達せず、ついに征討の大群を会津の四周にうけなければならない状態にたちいたった。攻めたてられれば護らなければならない。封建時代最後の、疑うことなき忠誠を誓う会津の武士は、潔く君の馬前に討死していったのである。
白虎隊は、いたいけな十六、七才の少年によって編成され、怒涛の如く押し寄せる敵軍に対し、裏切り者が間道を開いて大軍を既に会津の四境身近に入れていることもよく知らずに、雨のそぼふる暗夜、一握りの兵糧もなく、勇躍戸の口原の敵陣に打ちかかったのである。その最後は実に若人の節を全うする自刃を選ぶより外、道のないような立場に追いつめられていたのであろう。
世界の大軍をひきうけて、沖縄の孤島を死守して倒れた、娘子軍ひめゆりの塔のあやまりを、二度と犯さないようにと、今さらのように、目覚め、ふりかえっている日本国民は、実は、明治維新に際しても、東北の一隅、会津飯盛山上で、この少年たちをして、壮烈な自刃を遂げさせているのである。
我々はこの痛々しい、これらの少年たちの心根をくむとともに、もう第三、第四のひめゆりの塔を築くことなく、平和な世界をつくりあげたいと願う。少年たちの意地や実に壮である。しかし、かかるいけにえを出しても、その壮烈さのみたたえ、反省できなかったわれわれこそ、墓前に恥ずべきである。若人の指導精神も移っている。この壮なる心を平和日本建設のためにこそ捧げるべきであり、これがまた忠烈な白虎隊の霊をなぐさめる所以かと思う。
七 かずかずの追憶
新しい時代を建設するものは常に若人である。退廃した古代文化の国。イタリアの復興を若人に託そうとした当時のイタリア国民は、白虎隊の忠烈を欽慕して、ローマの千年の古柱を、昭和元年記念碑として、寄贈してきた。
つづいてドイツからも追慕の碑がとどけられた。
明治七年の改葬以来、十六年には墳域を築き、二十三年これを拡張し、大正十四年さらに拡張している。そして昭和元年十二月一日、イタリア記念碑の落成を期して現在のような白虎隊の墓を整えたのである。
しかしこのなかには、一貫して会津精神をせまい封建社会思想でおしかため、また白虎隊の忠烈な自刃の最後を青少年の指導精神にかりたてて、日本の全体主義的思想に利用した点はなかったであろうかと、反省されてならない。
郷土会津の人の白虎隊を追慕する所以は、もっと身近なものであり王政の復古をこい願い、あれ程に藩祖以来尊王の志の厚かったに拘らず、京都守護職時代の権勢に対する羨望、嫉妬と、徳川多年の縁故を結びつけ、ついに賊軍呼ばわりされて四周に敵をうけ、十六、七才のいたいけな少年が死んでいった。その心根がたまらなく泣けてくるのである。親心、肉親の情愛が、いとしいまでににじみ出てくるのであって、全く他意はない。そして二度と会津の地に白虎隊のような、壮烈ないけにえを出したくないと願い、一路敗戦荒廃の会津の復興をめざしてきたのであった。
飯盛山の墓守をしている、飯盛ミヨセという婆さんがあった。私は終戦帰郷後、郷愁をとどめえないものがあって、或る日飯盛山を尋ねたことがあった。お婆さんは一通りの説明を終ると、人なつっこく、声を低め語ってくれた。進駐軍が若松にも来てイタリアとドイツより贈られた碑をこわせということになった。イタリアの古碑からはファシストのマークを取り除き、基盤のカララの大理石にきざんだ文字は、セメントで埋めただけでは不十分で、石屋を呼んで削りとらせることで話がついたが、ドイツの記念碑だけはどうしても取り除いてこわせという。
「しかしね、こんどの戦争がどうしたか知らないけれど、折角遠い国から贈ってくれたこの碑に罪はあるまいて。アメリカ軍は恐ろしかった。そむけば殺されるかも知れない。しかし、白虎隊は十六、七才の子供ではないか。今のこの年頃の子供を見なさい。なんり気をして育っているのさ。それがお城が焼け落ちた、殿様が亡くなられたと思って、喉をついたり、さしちがえて死んでいるではないか。このしわくちゃの婆さんの首など飛んでもいいと思いましたよ。それでドイツかせ贈られた碑は家の側に持ってきて隠しておきましたのでさ。みて下されや。」
私はこんなにも身近く白虎隊の若人の心根をくんで、まもり育てている人は外にはあるまいと思って、泣けて泣けて仕方がなかった。白虎隊を思う会津の郷土人の心はこれなのだと思った。あまりに白虎隊の心根を、大人の野心的構想で育てあげ過ぎてはならない。私は全く、ありのありのまま、炎々とたちのぼるつ鶴ガ帖をちながめて今はこれまでと、一同ためらいもなく自ら刃をさして、莞爾として死んでいった少年たちの心根をくんで、ただしばし佇み、合掌してみるだけでよいと思う。どうか訪ねられる他郷の人々も、むずかしい理屈はいわずに、当時の会津藩の犠牲となって、壮烈な自刃をとげた、この少年たちの墓に香華をささげて合掌してやって下さい。
あとがき
この小著の前版「白虎隊物語」は昭和二十七年秋、吉川栄治、朝日新聞社幹部一行が、「新・平家物語」の取材に会津に来訪され、私が、二日間案内した縁につながる。はじめて飯盛山を訪ねた吉川氏は、当時飯盛山の墓守、案内をしていた、飯盛ミヨセ婆さんの「あれみっせい」と氏の肩をたたいて、ドイツ寄贈の文字の削りとられた碑の再建を、ものおじしないで語る熱弁の情景に、いたく感激されたらしかった。
翌二十八年三月の、「週刊朝日」春季増刊号に「新・平家今昔紀行」(「吉川英治・随筆新平家」に再掲)として詳しい会津の旅の模様を書いてくださった。その中にミヨセ婆さんの案内姿を杉本健吉画伯が、半頁大に描いて、吉川氏は「とにかく、愛すべき飯盛山のお婆さんではあった。若松市の名物婆さんとして市は可愛がってあげるがいい。」と書いておられる。
朝日新聞東京本社より、この増刊号が送りとどけられると、まず婆さんを喜ばせようと、飯盛山にかけつけた。それが何と婆さんが世を去って四十五日目の御法事の当日であったとは。遺族のかたがたから「お婆さんの話を一番詳しく聞いているのはあなただから、白虎隊の今様の案内記を書いてくれ。」と頼まれた。一応はことわったが、位牌の前で、週刊朝日の婆さんに関する記事に赤鉛筆で、アンダーラインを引いて読みあげてきた感激がさめきらず、一夜まんじりともしないで、一気に書き上げたのが、後章にみえる戊辰悲話の第一部「白虎隊物語」である。
白虎隊に関する著作、記述は既にたくさん出ている。私は「ありのままで弔いたい。白虎隊の追いやられた純情、可憐なこころねをくみとりたい。」とい立場から書いた。既に十年、吉川氏にはその後御交誼をあずかったが既にない。いつか浦松佐美太郎氏が、この旧版「白虎隊物語」ょ読み、週刊朝日の「日本拝見会津若松市の巻」で「山口弥一郎教諭(註・当時県立会津女子高等学校教諭)の研究によると、白虎隊は戦線を離脱して若松へ帰ろうとしたが、飯盛山の上まで来ると、町は盛んに燃えており、疲労と空腹は激しく、その上、周囲は敵軍に巻かれているといった状態なのでそのままそこで自殺したのだということになっている」とのべ、「飯盛山に立てこもって『死をもて守るこのとりで』というのは後から作り上げたセンチメンタルな伝説ということになる。
だから過去へのノスタルジアは事実より伝説の方へ執着する。それだからこそ、自慢の種ともなるのであろう。」と感想までつけ加えている。こういわれてみると,私も郷土人としてすっきり割り切れない気もするが、時日はこう見られるのも致し方ないかと思う。
資材は平石 蔵著「会津戊辰戦争」その他から、よく検討してとったが、「物語」と題する風な書き方は、文筆を専業としない私には柄にもおわないので、幾度か絶版しようと企てた。それがまた、観光ブームもあるからであろうが、何万部も出て、まだ寿命があるからと、私の意図は入れられそうでない。
そこで私は、うそを書かない郷土解説なら、もう少し充実したものにしたいと願って、このようなものにまで発展した。ここまで来るにも、実に多くの人々の協力のあったことを感謝せずにはおられない。この丸八印刷所の社長佐藤碑彦八氏が、私の要望に従って、車を走らせて自分得意とする写真の殆んど全部撮ってくれた。この中には重要文化財や早川代次氏苦心の蒐集になる白虎記念館所蔵のものなどある。皆心よく撮影や、資料の提供をして下さった。
挿絵には故人の渡部菊二画伯ほか、安達忠良氏などの多大の好意にあずかった。編集についても旧書から引きつづき会津若松市商工課長宮崎十三八氏に御協力を仰いでいる。
いくらか視野を広くとって、小冊子で十分とはいえないが、白虎隊、なよたけ、娘子軍をとりまく会津の風物を述べて、一つの事件も、その土地の風物と存在しないことを表したかった。時代も移り変わり、訪ねてこられる人々の気持にまで、われわれが立ち入りは出来ないから、戊辰夜明けの犠牲者を、手厚く弔っていただきたいとの念願をこめるのみである。
昭和四十三年三月 山口弥一郎
会津白虎隊記念館と秋篠宮両殿下
賊軍の汚名が消える日を一日も早くと願う
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一昨日の19日、会津若松の飯盛山に行って来ました。
毎年行っていたのに、ここ2年間はご無沙汰でしたので、今年こそは何としてもと思っていたので早めに行ってまいりました。
以前のブログ記事です。紹介しておきます。
白虎隊と三国軍事同盟
世界がいくら広いと言っても、イタリアのベニート・ムッソリーニから送られた記念碑とナチス政権下のドイツの外交官から送られた十字の紋章入りの記念碑が見られるのはこの飯盛山しかありません。
映像も撮ってあるのでこの事は後でゆっくり紹介させて頂きます。今回はこの記念碑が立つ場所の下に建つ会津白虎隊記念館についてです。
この記念館を訪れた日本国民は多いと思いますが、その中には秋篠宮両殿下がおられます。記念会館内にもご訪問した時の写真が掲載されています。
秋篠宮両殿下がこの地を訪れたのには、深い思い入れがあったのではないか? 私はそのように勝手に推測させて頂いております。
その理由について若干ご説明しておきます。
池上四郎(大阪市長)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
池上四郎池上 四郎(いけがみ しろう、安政4年4月18日(1857年5月11日) - 昭和4年(1929年)4月4日)は、日本の警察官僚、政治家。第6代大阪市長、第6代朝鮮総督府政務総監。兄に検事・池上三郎、娘婿に内務省官吏石川銀蔵。文仁親王妃紀子は曾孫に当たる。
1857年会津藩士池上武輔(250石)の四男として、陸奥国耶麻郡(現・福島県会津若松市)で生まれた。11歳のときに戊辰戦争を経験する。兄の友次郎は、鳥羽・伏見の戦いの正月五日の戦で戦死。
父・武輔は井深宅右衛門の第二遊撃隊の組頭として越後小千谷で新政府軍と戦い、負傷する(北越戦争)。四郎は、兄の三郎と共に白虎隊少年隊員として会津若松城に篭城した。白虎隊本隊への入隊も希望したが、15歳以上の規約のため除外された。敵に城を取り囲まれて、一日に約二千五百発の砲弾が撃ち込まれる中で、四郎は少年隊の仲間と共に唐人凧をあげて仲間の士気を鼓舞したというエピソードが残っている(会津戦争)。
以上
この白虎隊記念館の館長は元会津若松市長の早川喜代治氏ですが、館長のこのような言葉もかつてマスコミに紹介されております。
アサヒグラフ 1989.9.8
紀子さんの祖母・紀子(いとこ)さんは旧会津藩士の池上家に生まれた。家系は、秀吉によって会津に封じられた上杉景勝の家臣にまでさかのぼるという。紀子さんの祖父、武輔さんは百五十石の中級武士で、戊辰戦争に参戦。新潟・小出島の陣地副将として立て篭もったが、官軍に敗れ、藩とともに青森・斗南に移った。
このとき紀子さんの父、四郎さんは十歳だったが、場内から大きな唐人たこを上げ、「城はまだ落ちていない」と場外の兵士を励ましたという。後に大阪市長となり、その剛毅さで市民の人気を集めた。四郎の研究をしている会津若松・白虎隊記念館の早川喜代次館長は「賊軍の総大将である会津から皇室に、と思うと不思議な因縁を感じます」と話す。
以上
この件に関しては紹介だけに留めます。私も福島県人として、また会津白虎隊の精神を若い頃から讃えてきた者として、これほど嬉しいことはありません。
会津若松鶴ヶ城の天守閣には城主・松平容保が孝明天皇から頂いた文書などが展示されています。松平容保はそれを肌身離さず持っていたと説明されています。
会津は賊軍とされ長い間その汚名を着せられてきましたが、その汚名が晴らされるときが必ずやってくると信じています。また、その日こそが新しい日本の夜明けになると固く信じる一人でもあります。
