活動告知 8月18日
旧ソ連の蛮行を忘れるな!
日本人はソ連の侵攻を忘れないデモin錦糸町

場所:江東橋公園 東京都墨田区江東橋1丁目 (諸事情により、公園変更になりました。)
(最寄駅JR中央・総武線,JR総武本線,東京メトロ半蔵門線錦糸町より徒8分、都営新宿線菊川駅より徒歩14分、東京メトロ半蔵門線,都営新宿線住吉駅より徒歩14分)
地図:http://www.mapion.co.jp/m/35.69064088_139.81486842_
8/v=m6:%E6%B1%9F%E6%9D%B1%E6%A9%8B%E5%85%AC%E5%9C%92/
時間:15時30分集合 16時出発
告知動画http://www.nicovideo.jp/watch/1376305196
主催:日侵会
現場責任者:菊川あけみ
終戦直後の満州、千島列島侵攻を決して忘れません。
最近では
「北方領土はロシア領だ!日本人が北方領土問題に口をだすな!
北方領土は返さないよ〜ん!北海道はロシアの領土だ!」と
言い出す始末。
色の白い支那人、朝鮮人とも言われるロシアに対する糾弾デモです。
ロシアマフィア、ロシア人デリヘル、ロシア人パブ、
支那マフィアの多い錦糸町で開催します。
全ての始まりは1945年6月、日本は終戦工作の一環として
和平調停の斡旋を求めたのですが、
日ソ中立条約を破棄し日本に宣戦布告した直後
68年前の8月9日、ソ連は日ソ中立不可侵条約に違反し、
満州や北方領土などに攻め込み、日本への侵略を開始しました。
日本各地への度重なる爆撃と、広島、長崎への原爆投下で、
散々に痛めつけられ、虫の息となった日本に対し宣戦布告。
8月15日、昭和天皇の玉音放送が日本中に流れたのち
日本軍や警察が武装解除となったのを待っていたかのように、
ロシア(旧ソヴィエト軍)は満州や樺太に上陸。
罪もない一般市民に対し、略奪・強姦・リンチ殺人など
残虐非道の限りを尽くしたのです。
ロシア(旧ソヴィエト軍)は、停戦後も満州や北方領土などに攻め込み、
沢山の日本人を殺害、物資を略奪。
日本人女性は、ソ連兵によるすさまじいレイプの被害を受けました。
命があればまだいい方です。
散々にレイプされた後、ボロ雑巾のようになるまで殴られ、
ナイフで刺され、体のあらゆる部位を切り取り、えぐり取られ、
石をつめられ、生前の面影が残らない無残な死体となって、
道端に捨てられた女性も沢山おります。
乳幼児も放り出され、男性も体の部位を切り取られ、
無残に殺されました。
当時ソ連兵は少しでも機嫌が悪くなると、日本人をなぶり殺しにしました。
日本人が死んで行くのを見ては、ワイワイ騒ぎ酒を飲み、上機嫌。
また『正しくない戦争、侵略の戦争をすれば、その最後はこんなものになるのである』と
陸軍の将校の家族を公開処刑。
軍人・一般市民の別なく100万人以上の罪もない
日本人を拉致、 シベリアへ強制連行、過酷な環境で強制労働に従事させ、
結果的に50万人以上の 日本人を大虐殺しました。
それがいわゆる『シベリア抑留』の実態です。
広島、長崎の原爆投下は、教育機関、マスコミで
毎年大きく取り上げられますが
なぜか、この停戦宣言後の卑怯極まりない
『ソ連侵攻』関連の資料は削除されていることが多く、
樺太の真岡郵便局(まおかゆうびんきょく)事件をモチーフにした
映画『氷雪の門』は 当時のソ連のメディアに「ソ連国民とソ連軍を中傷し、
ソ連に対して非友好的」「ソ連国民とソ連軍を中傷する反ソ映画」と
非難され、 撮影から36年も経った、2010年に全国で上映されました。
親ロシア派の日本人と、ロシアが日本人に隠したい
満州残留孤児
牡丹江事件(ぼたんこう)
麻山事件(まさん)
小山克事件(しょうさんこく)
葛根廟事件(かっこんびょう)
真岡郵便局事件
三船殉難事件(さんせんじゅんなん)
敦化事件(とんか)
通化事件
虎林関東軍野戦病院従軍看護婦集団自決事件
これほど多くの100年も経たない事件は、 全て昭和20年8月9日の『ソ連侵攻』から始まっていることを、私達は決して忘れてはいけません。 北朝鮮、南朝鮮、支那の比ではないのです。
また大正時代、ロシアのトリャピーチン率いる、ロシア人、朝鮮人、中国人4000名が、共産パルチザンを名乗り、日本人居留民と日本陸軍守備隊700名余が虐殺された尼港事件というのもありました。
戦争の関連で昨今、日本人でも自然と8月15日を 『終戦記念日』と言えてしまう。 記念日と日本人に定着させ「日本人は敗戦国だと常に自覚しろ!」 という、勝戦国側の洗脳そのままだと思います。
日本が敗戦国という汚名返上をし、 外交のテーブルで対等に世界と渡り合うには 非武装より、
核武装か核武装以上の武器をもつ必要があると思います。 日本人のメンタルが強くならなければ、日本も変わりません。
以上
明日のこのデモに参加してから福島に戻ります。
文の中にもある尼港事件についてはかつてブログに取り上げているので紹介します。
2006年02月07日
日露の一つの悲劇『尼港事件』 その��
忘れられない、いや忘れてはいけない生き証人の言葉
本日は北方領土の日です。日本政府は北方領土の返還運動を盛り上げるために1981(昭和56)年にこの日を制定しました。しかし、現在、返還運動が盛り上がっているとは思えない。国民の間には諦めの声すら聞かれるほどである。
冷戦の崩壊で一時旧ソ連が経済の危機に瀕したことがった。スーパーマーケットからは食料品が消え、暴動寸前まで行ったのである。思えばこの頃が日本としては交渉する絶好の機会だった。今、石油やガスの世界最大の輸出国となったロシアが、そう簡単に領土の返還に応じるとは考えにくい状況となっている。
今日は北方領土の日なので返還運動などについて書こうかと思ったが、これは別の機会に譲って、戦前の旧ソ連と日本との関わりについて述べたいと思う。いかにソ連は残虐な国家であり、日本はそれ故に祖国の防衛に神経を使わざるを得なかったか。
そのことについて、現在では余り話題にもならないが、連載で取り上げて見たいと思う。何故、世界でも最強といわれた関東軍60数万人は、ソ連との国境に対峙していたのか?戦うことなくシベリアに捕虜となって連行されたのか?この第2次世界大戦の最大の謎解きにもなるだろう。
私は福島県福島市生まれである。福島市といえば先ず年配の人が一番最初にあげるのは飯坂温泉である。かつては東北一の温泉街として有名であった。東北自動車道の飯坂インターで降りて温泉に向かうが、この丁度降り口に一際目立つ大きな墓標が立っている。
抜きん出て他を圧倒するかのような大きな墓標ではあるが、今はただひっそりと立っているに過ぎない。私がまだ23歳の頃、この墓標はいつも掃き清められ、一日として線香の絶える日はなかった。近くの温泉の下足番をしていた老人が、毎日足を運び供養していたからである。
彼の名字は菱沼さんと言った。当時70歳は確かに越えていると思った。彼は元憲兵将校で戦犯容疑を逃れ、各地の温泉場を転々としたが、最後にこの地を住居として定めたのは「石川中佐と尼港事件」に寄せる只ならぬ想いにあったからだ。
私はある時、この老人がこの墓標を掃除している姿を見て、非常に興味を抱き話をかけた。老人は多くの日本人に忘れ去られようとしていた尼港事件を私に教えてくれた。
自分の過去には触れたがらない。しかし、何故自分がこの墓標の掃除を続けるのかという、その背反する思いの中で私に語ってくれたのである。もう30年もの前の話だ。私は最近思い出してこの墓標を訪ね、そして老人が住んでいたかつての家も訪ねたが、今は取り壊されて何もなかった。当時、老人が大切に書き遺していた原稿は何処に行ってしまったのか?近所の人に墓を尋ねたが知っている人もなく、二人暮しであった老夫婦の墓に参ることもかなわなかった。
さて、この尼港事件とはどのような事件であったのか、現在改めて昔の歴史辞典を引くと次のように書かれている。
「大正9年シベリア出兵中、ニコライスクで邦人700余名がパルチザンと衝突して惨殺された事件。ソ連パルチザンが日本軍の守備するニコライスクを包囲、降伏を要求。一時休戦協定が成立したが、日本軍がこれを破って蜂起。敗れて100余名の将兵と居留民が捕虜となった。その後日本の援軍の来襲を知ったパルチザンは市外を焼き払い、日本人捕虜を虐殺して撤退した。ソ連側は責任者を罰したが、日本側は賠償を要求。その保障としてきた樺太を占領した」(小学館・世界百科辞典)
元憲兵でこの尼港事件を見た老人の言わんとした真相は、この百科辞典に含まれているはずはなかった。この老人が私に残してくれた言葉を私は忘れてはいない。
この尼港には事件前から日本人700人が生活していたが、その他にもロシア人が8000人、支那人と呼ばれていた中国人が3000人、そして朝鮮人が500人ほど、また少数のユダヤ人もいたそうだ。
パルチザンとは正式な軍隊ではなかったが、赤軍の支配下にあり勇猛な若者の部隊であった。当時、尼港には共産主義革命から逃れてきたロシアの亡命政権があり、パルチザンの襲撃は避けることの出来ない状況にあった。
市内を取り囲まれ孤立した日本守備隊は一時休戦をパルチザンとの間で結んだ。パルチザンは市内に入り、ご難を恐れた市民は赤旗を振ってこれを歓迎した。パルチザンは協定を無視して日系の露人や将校、富豪など400人を投獄した。
日本人には直接手を出していないものの、約束を反故にされた日本守備隊は強く抗議。市民側からの保護を求める声を無視する事も出来なかった。交渉は失敗し、パルチザンは日本守備隊の武装解除を要求。やむなく抵抗したが、ほぼ全員が惨殺されたのである。
この時、多数の支那人と朝鮮人がパルチザンに寝返り、銃を取って日本人の虐殺に荷担した。この事実は何故か伏せられた。朝鮮を併合しており、また支那大陸に兵を進める日本としては、共産主義者のみによって日本人が虐殺されたというシナリオこそが大切であったのかも知れない。
尼港の悲劇とは、ただ日本人のみのものではなく、革命によって国を追われ、漸くたどり着いた酷寒の地で、同じロシア人の手によって惨殺された白系露人の悲劇でもあったのである。
2006年02月08日
日露の一つの悲劇『尼港事件』 その��
国民を震撼させた尼港の残虐
ロシアに突然共産主義革命が始まり、それは燎原の火のように広まっていった。この共産主義革命がヨーロッパにまで伝播することを恐れた英仏などは、米国と日本にシベリアへの出兵を強く要請した。
このシベリア出兵に対しては、朝野を問わず危ぶむ声は少なくはなかった。確かに日清、日露、第一次世界大戦と富国強兵策の実が勝利となって国民の大部分は度重なる軍事行動に馴れてしまっていた。
しかし、戦争への疲れがあったことも事実であった。それに国民生活の向上と大正デモクラシーと総称された自由の空気を市井の隅々の人までもが味わっていた。このような中において、この尼港の悲報は国民に知らされたのである。
「パルチザン(共産主義者)が日本人の捕虜を全員惨殺して、市外を焼き払って逃亡」という速報であった。
降伏した日本守備隊と日本人捕虜を助けるために救援軍が派遣された。この救援軍からの第一報だった。
救援軍が市内に入って見た光景はこの世のものとはとても思えないほどの惨状だった。当時の日本の新聞社は次のように報道している。
「残虐の跡を辿りて―。憮然として残虐の跡を語る。言々皆凄愴、句々鬼気帯びて人をして流涕滝の如くを禁ぜらしむ」
「残虐な魔手に屠られたる同胞七百の悲愴なる最後―大正9年5月24日午後12時を忘れるな!是れ血塗られたる尼港事件の真相よ、国民よ!この残忍暴虐の実況をつぶさに聞け」
全員虐殺され生存者が一人もいないのに、どうして事件の全貌が分かったのかと考えるのは私だけではないだろう。堰を切ったように報道された事件の真相は、現地に派遣された記者がまるで残虐の現場に居合わせたようなリアリズムで一貫されていた。
日本人は婦女子、老人、兵隊全てが殺されたが、白系露人が何人か助け出された。思想転向を申し出て処刑を免れた生存者である。更に逃亡中に捉えられたパルチザン捕虜。彼らの口から真相が漸時明らかとなっていったのである。
また、捕虜となった兵隊や殺された家族が最後に必死の思いで書き残した様々な通信日誌や感想録が発見された。この尼港における悲劇は日本人に大きな衝撃を与えた。そして共産主義の怖さというものを嫌というほど知った。
この共産主義の恐怖というものが、後々まで日本に重く圧し掛かってきた。日独伊反共軍事同盟を締結しながら、共産主義の総本山ソビエトとは中立不可侵条約を結んだり、モスクワまで進攻したドイツのヒトラーから「ソ連に背後から攻め入って欲しい」との要請についに首を振らなかった。
更には世界最強と言われた関東軍60数万人はソビエト国境沿いに展開していたが、対峙するだけで最終的には武装解除され全員捕虜となった。勿論、自決した将校もいたが、それは南方で戦って玉砕した兵士の数からすれば極めて少ない。
これらの事実は第二次世界大戦の原因を「自存自衛の戦い」「アジアの解放」の二つにしか求めてこなかった点に表わされている。
「共産主義との戦い」が強調されなかった背景として、この残虐事件があり、共産主義への恐怖が解けなかったということが考えられるのである。
>多数の支那人と朝鮮人がパルチザンに寝返り、銃を取って日本人の虐殺に荷担した。
2006年当時は余り強調しなかったが、今ではこのことを特に強調しないわけにはいきません。
